選手の精神的後見人としてのコーチ

2005年4月18日(日)

週間新潮の4月14日号にこういう記事がある。

少し長いが読んでいないひとのために肝心な所を、引用:

こぶ平改め、襲名興行中の落語家・林屋正蔵(42)の出生について、落語家立川流家元・立川談志(69)がこんなことをいっている。「こぶ平っていうのは三平さんが銀座のクラブの女性に生ませた子供で、夫人の実子ではない」
中略
「談志がいわんとしているのは、正蔵がいまのままじゃダメだってこと。人間の業が描けていない。古典にめざめたといって、人情噺ばかりやっている」
中略
談志の矛先は、正蔵の後見役を任じている、春風亭小朝(50)にも向かっていて、「芸もない奴が盛大なイベントをやったからと言って、落語界が盛りあがるってもんじゃない。正蔵の出生の秘密を明かして挑発しているのは、正蔵、小朝、おまえら間違ってるといいたいからなんです」

そういう解説をくわえているのは、談志ではない別な落語家だが、出生の秘密あかしたのはどうかとおもうけど、前にも書いたが、こぶ平が正蔵襲名するって、、そりゃおかしいぜということは前にも言った。

いろんなことが、テレビもまきこんで「やってしまえば、言ってしまえば」いずれ、衆生はゆるす、忘れる、というように思うひとたちがいるのがこの世である、ただ落語の世界のことは、「おいらわからん」でもよいが、サッカーの世界のことは、結局同じことが、おこったとして、談志みたいに、切りつけてくるひとがいるのか?

六本木で、既知の高山先生(心理カウンセラー)の講演きいて、今の若いひとがたよりに(という言葉であったかどうか忘れたが)できる上長の世代のひとは「自分(その若い世代)が、関心をもっていること「を」その上長も「関心もっていて」、相談したら、聞いてくれて、なおかつ、自分が知らない、選択肢ももっていて、なおかつそれを押し付けない、ひとだ」と。

なーに、甘えてんの、と。
そんな若い世代からしたら、さしずめ、談志などは一番に嫌われる存在だろう。

自分などは、談志のように切りにくる、存在はかえって、好きだし、この世では、まれな経験である、が、いざ自分が正蔵の立場、であるとしたらわかっちゃいるけれど「ひがみやすい」になるかもしれない。

いわく「談志、おれをねたんでいるのか?」とか「談志、おまえだけが落語家か?」とか諍いにまずいくような、狭隘なこころであるかもしれずやである。

コーチやっていて、選手なんぞはいくらでも切りつけにいくタイプだが、高山先生のいうところをきいていたりしたら、考え直さなければならぬか?と感じたりする。

あえて言えば、サッカーも芸の世界である。

からだ、がきいているうちにしか、できないというスポーツをあえて、芸だと言い張るわけだが、そう言いたい意味は、実践的には、それこそ談志のエリアである落語なら落語という芸の習得に、とてつもない、修行が必要なようなので、サッカーでも、そこに高校生であれ、大学生であれ、集中してもらいたい、精神態度をコーチが求めたいからである。

ずっと、練習試合で勝てない、流通経済大学付属柏高校(の3軍かなんだかわからないが)トップはいずれにせよ、どこかに練習試合に行っている、のだが、身体性だけはやたらに、強い相手と日曜日試合やりに行く。

柏インター降りて、右にいけば、柏市街でその手前が交通渋滞で名高い、十余二(とよふた)よばつかであるが幸いなことに、左にまがって、すぐのところに、この学校がある。
山切り開いた、サッカー専用グラウンド、土ではあるがまずまず平坦。
いずれ、ここの先生のことだから人工芝にしちゃうだろうね。

相手は1軍だろうが3軍だろうが、ある特別な考え方にしたがって(そういうコーチングをしている)サッカーをやってくる。
ラインはだいたいの場合、4フラット、こちらがあせって「蹴る状態」をフラットの前でプレスをかけて、こちらに強いる、そこでオフサイドかごちそうさんロングで、ボールを「とり」そのあとは、ポジション・レス、でおもには、タッチラインに数的優位をつくって、くる。

そこで、あんまり負け続けてきて頭にきているので、先週は練習で、柏のことを意識においてただし、ダブルオーバーラップという「名前を」つけた攻撃のための戦術練習をとりあげて、で、その副次的効果として、「柏もオーバーラップするかどうかは別に」2トップのひとり、もサイドにひらいてはりだしてくることもふくめ、3人、4人でボールキープをサイドでまずねらって、そこから「うまくいけば、ゴールのやってくる」だから守備ということでいえば、このタッチラインぞいの相手の数的優位に「つきあうしかない」とした。

試合は、そこがうまくいって、前半、柏シュートもクロスも飛ばない。

ひとつのサイドにむかって柏が攻撃してきて、これが上級チームでそこがうなくいかないとなると、すぐに、相手のラインでチェンジサイドしてきて、そうなって、こちらの守備の策が機能しなくなるのだが、そのサイドチェンジがないので、ラクで、後半は、さらに、こちらのラインの横への移動をより、「はやくやれ」と、コマンドいれて守備はほぼ完璧になった。

そうやって、こちらのトップやらハーフの守備がやりやすくなるように、ライン「から」声かけ、ということにした後半(なぜってこちらのトップやら、ハーフがボールを「追ったほうがよいのか」それはこちらのラインの、そなえ、に依存するわけだから、ラインのそなえが、OKかどうかそれは前でおいかえるやつらにはわからないわけで、そう言う意味で、ぼーっとしている、こちらのラインの連中には「おまえら、いつ変わるの?」と言った。

つまり前半も一応、うまいこと守備やっているのだが、けっして主体的ではない、ということである。
自分たちが、「まず、どうする」そこをはっきりと、そのうえで、前にいる連中に、指示、コマンドをだせ、簡単に言えば、それだけのことであるが。

それで、後半、2-0とリードしたが40分ゲームの最後の10分ぐらいで、2-1、2-2に追いつかれてしまった。
こういうところが、高校生のひ弱なところだがまーそこは機会をとらえながら、修正であろう。

ひ弱といういいかたに、精神的な意味合いを感じる読者がおられるかも知らないが、そう言うことを言いたいわけでもない。

これが公式試合なら、2-0であと10分という場面での、相手の捨て身の攻撃をいかに封じるか、少しは、方策なども言うが、まず、勝つというかリードするかどうか、なかなかわからない試合開始状況ということもあれば、だいたいは、2-0になって、もそのさきの、話というか期待はしないで、試合進めて行くので、反省はこの先だろうな、という思いだということである。

柏インターからまた常磐高速にのる。

レジャー帰りか?
長い車列が、首都高速インタージャンクションに待つ。
日曜日のコーチのしごとはこれで終り。
ほかのひとには、日曜日の終りの、休息がまた来週からの、しごとのためのオフだが、コーチにとっては、日曜日がいわばウイークエンドだ。
しかしそういうひとはあまりいないものだから、要は、ひとりで、このウイークエンドを過ごすということをしなければならない。
いや、どうということはないけれど。
来週は、桐光をやつけに行く予定、栗の木のそばの、蕎麦やでビールとざるおいしく食べたいもんだ。
(この項終り)