オシムの考えるサッカー


2007年4月9日(月)

ある人が(コーチング日記の愛読者ですが)メールくれて乱暴に言えば(相川がね)「オシムのサッカーおもしろくない」というコメントであった。

週刊文春の1月4日号オシム単独インタビューというのを、切り抜いて、時々読む。

なかほどに、なぜ代表監督を引き受けたのか?という問いに、「そしてすべてを正常な状態に戻すために、自分にできることを引き受けるべきだとおもった」とある。

正常では「ない」状態が「代表チームのことをさすのか?日本のサッカーのことをさすのか?」根は同じだから、両方だと相川はかってに、考えるわけだが、この言葉は、好もしい挑戦であると、そういうように、考えなかったら、日本人(コーチだけでなく、一般ピープルも)、ただのお人よしということになる

オシムがいう、「正常でない状態」とは何か?

それを、相川なりに考えると、まずは、2006年の前に、一度でも「ファンタジスタ」だなんて言葉を使っていた、評論家だ、メデイアの人々はことさらに罪が深いのだが、彼らが頭に浮かぶ。

もともと、厚顔無恥なやからであろうから、このオシムの「正常な状態に戻すため」という「言葉の、つぶてが」自分の顔にヒットしているのだとはおもわないだろう。
しかし、かれらの背負った、十字架は、重い。

プロレスは綿密に、試合のシナリオを試合前にうちあわせて、そのうえでの、鍛えた肉体を、「破壊するかのような」しぐさ、わざのかけあい、情念のほとばしりのような、自己表現、敗者の追従など、いってみれば、演劇であることは、常識だが、今でもあれが真剣な戦いであるとおもいこんでいる日本人が、何百万単位でいるだろうに、そのくらいわれわれ日本人は、作為的に、演出されたものにひっかかるところがある。

もっともひっかかったほうが「楽しめる」ということもいえるわけだ、デズニーランドもそうだし、映画の中で、危機一髪のときにどこからかくる騎兵隊だ、パトカーだもみんなそのたぐいで、あるが、例えば映画で深刻なこの世の現実なんか見させるな、という思いをわたしももつ。

あるいは、深刻なもの=この世の必然の、もの、を売り物にするなとでもいうのか?

そんなものより時間つぶしなら、とんでもないブレーンバスターを見たほうが、よいとでもいうものだろうと。

元はといえば、つまらないもの、ただあるがままの、ものに「名前をつけて」その名前があるがゆえに、日本人の精神は、魅了されるということもある。言霊の国だというので。

ファンタジスタとやっている本人が「名乗った」わけではなく「名前をつけてしまったがゆえに」こちらが勝手に輝きを、錯覚としてもつといった、たぐい。

本来は演劇だが、流血のといわれたら、それがあらかじめ用意された豚の血のりであれ、流された血に、なにがしかの興奮を覚えるというわけである。

では、サッカーはどうか?

物の本によれば古代のサッカーは敵の生首を蹴っ飛ばして、街から街へと大衆が、血と被征服の勝利の、歓喜に酔いしれて、行ったフット=足のプレイだとあるが、源泉はともかく、21世紀では、どうやらルールというものが、整備されて、一見、肉弾戦に見えるものの、やっているもの同士では、「それをやったらいけない」(おもには危険なタックルなど)という、不文律などがあって、ゲームが終わっても、自分の首は肩のうえにまだある、というスポーツに変性した。

原始だか古代だか敵の生首を蹴っ飛ばすと、血が騒ぐ人間の、本性も、昇華してそれで世界最大のスポーツになってこの世での、ところを得ている。

サッカーにも談合もあろうが、基本的には、要は真剣勝負しかもインチキやるには、けっこうたいへんなスポーツである、というのは、グラウンドのいたるところで、敵、味方入り乱れて、争うスポーツなので、インチキがしにくいというわけだ。

又聞きだがアメリカンフットボールなどはそのシーズンの攻撃フォーメーション(幾通りもあるらしいのだが)の、データを盗まれでもしたら、おてあげだ、というようなことらしいが、サッカーの場合は、攻撃のかたちなど、ということで、「かたちをつくって、そこに個人を、はめこむコーチもいるが」今のところは、そういうアメフットのような、かたちに個人をはめ込む、サッカーのチームが、勝つ確率が低いので、自分に言わせれば秘密練習がどうしたのってなもんで、結果、入り乱れる戦いだから、それを事前にコントロールすることなど、できないんじゃないのとおもっている。

サッカーはだから、人々に、なかなかうまくいかないというキャラを見せ付ける、そういう試合なのでそれを、見ていての欲求不満を、募るスポーツであるし、だからこそゴールすることへの歓喜も反動的に、とてつもないスポーツになる。

そういうなかなか「うまくいかない」サッカーのプレイの数々をいとも簡単にやってのけてしまう、「うまれつきのサッカー選手というのが」いて、凡児・豚児のたぐいからしたら「神のごとき存在に映る」そういう選手をファンタジスタというのは勝手だが、基本的にその誕生は、10年にひとりみたいな確率であろう、サッカーはそういう存在がなくても、行われてきたし、かつそういう存在がいなくても、人々をして魅了をあたえるものであるのは世界中で、きょうも証明されているわけだから、ファンタジスタがいないからといってチームがサッカーの魅力を、発揮できないはずはない、だろうというのがおそらくオシム氏の、考えの根底にあろう。

というか、オシム氏はさらに彼の思考を、すすめて、うまれつきの、英才、秀才を中心においてチームをつくることの愚を、いいたいのではないか?

そこにきて「アイドルを、創り出し、アイドルのささいな一挙手一動作を、もったいぶって、流通させると」それが金になるというメカニズムが確かにあるものだから、そういうものよりも、先に、サッカーは先行して、この世にあったし、そんなメカニズムの中で、好んでなのか?やむを得ずなのか?はべつに生きている、業界人の思惑に、なんでサッカーが巻き込まれなければならないのかと、おもっているふしがある。

このあいだ、赤坂の定食屋兼いっぱい呑みやで、岡山の「またぎ」だというおっさんと同席して、最初のうちは、「あんたいのししがつっこんできて、こちらの股間にでも突進したら、あのきばっていうのは、日本刀と同じなの、頚動脈すぱっと切れるのね(頚動脈、頚動脈とくりかえしていたが、言わんとすることは、大腿動脈だろう)だから鉄砲にねらいつけてずどんと、遠くから撃つ、これはさ、鹿もそうなんだ、あの鹿の角も、人間つっかけられたらスパッとかみそりみたいにきれるんだって」いやTBSマンだ、国会議員の秘書だなんていうのは、この赤坂の街にいくらでもいるが、またぎなんていうのはまずはいないからおもしろく話しきいていたら、いっしょについてきた、新潟の百姓だと自称する、そのまたぎのおっさんのつれあいが「あのね、このおじさんは鉄砲うつといってもさ、かこいのなかにいる、いのししを撃つだけなんだよ」って正体ばらして、そこでみんな大笑いという始末になったが、もともと、人間話を大きくしておもしろさを誘うみたいなことはある。もっともそれが、電波やら新聞に同じように、でてくるって「やっぱりいけないことだろうね」「ナットウくったらどうこうみたいな」

メデイアや、なにかがこのよにあることのプラスもあろうから、この先も、メデイアは存在するだろう、オシム氏が言うように、ならばメデイアもサッカーに関して、プロでなくては困るというところあたりが、結論になろう。だから、彼は少なくとも、日本のメデイアは「プロじゃないだろう」と、言い放っているわけでこれはこれでおもしろい。

ファンタジスタがいればいるで、サッカー面白い、いなくても、サッカー面白い、面白いサッカーのチームをコーチは作れなければならない。オシムが言いたいことは、そういうことではないか?

練習方法やら、戦術について、他者の考えを知ることも勉強になるが、今の私は、先人であれ、同僚、後輩であれ、サッカー人の人生の話しを聞くのが一番参考になる。
いろんな人がいるわけだから、サッカーがすべてだというひとはなかなかいないものの、何事もそうで、もし他者のいうところに耳かたむけるだけの、重みがあるのなら、サッカー人は、サッカー人からの摂取が、やはり、よいわけだ。

で、オシムがどういう練習してるかなどはどうでもよいが、オシムが、人生を語っているとしたら、やはりそれをききたいという素直なところである。

日曜日は、高尾山まで行って、駿台学園、暁星と、関東大会の都大会予選をやってきた。
林先生は、暁星の監督だが同時にまだ協会の技術委員もやっているのだろうか?暁星、なかなかしっかりとしたサッカーを展開してきたが、駿台2-1逆転で、勝った。

駿台ファンタジスタなどいないが、駿台のストッパー相手の歯が脳天にきて4針縫う負傷までして、も戦わせて、のりきったようなゲームである。

一見、モダンな感じのする暁星のサッカーだが、試合を見ていたら、どこか捕虜の頭蓋骨おっかけていたサッカーの遠い時代の太鼓の音は聞こえないんだよねと勝ったので、好きなこといっているが、それでわかるひとはわかるだろう。
(この項終わり)