奇妙な現象

2003年4月07日(火)

あるチームの若いコーチからのレポートにこうあった。

何か一つ指示をするとそればっかりやってしまい、それまで伝えてきたものをやらなくなるという奇妙な現象は前からあったので、そこをどう攻略していくか。 素直で聞いたらすぐにそのプレーするという部分ではプラス面ですが、それ以上にマイナス面が大きいと感じます。

ここのところは、少し説明したほうがよろしいので、日本学園でもそれは、同じということをまず言って、少し説明する。

相川の練習の進め方、そのデザイン、ならびに、選手(特に、高校生ぐらいの選手)にたいして、集中力を期待するために、テーマに沿う、テーマをやりぬくということを強調したら、その練習はわかりやすく言えば「極端になる」

極端の反対が、サッカーでは、「あれも、これも」で、変化がでてくる、ということになる。つまりゲームというのは、極端ではなく「あれもあれば、これもある」のは承知のうえだ。
しかし、そうであるからといって、練習がただゲームの、自然ななりゆきばかりをやる、サッカーの腑分けをしないで、ゲーム形式を、選手にまかせてやる、それでいざというとき、コマンドを発することができない。

そこで、ゲームのなかから、あたりまえのこと引き出して、そのことを、極端化して、選手に取り組ませる。
なぜなら、向上はくりかえしによる。しかし「同一のことを、正しく、くりかえさなければ、何事も、血肉にはならないはずという、定理がある」
よい例というか悪い例というか、クロスをあげて、中でシュートをするのは、良い。
しかしクロスの弾着、定まらねば、中の選手の、ボールにどうタイミングを合わせるか、どう、足を振ろうか、それを追求できまいに。

そして仮に、野球におけるピッチングマシンと同様の機能をもつ、センタリングマシンとでもいうものが、できれば、(昔あったと思うが)中の選手は今度はボレーだ今度はヘッドだとすくなくとも、100回やって、すべてに、正しい「くりかえし」を練習できるだろう、それが人対人では、ずれたクロスに、むちゃくちゃなよせかたをして、「ばらついた身体の、ふるまい」をくりかえして、それでは「悪い習慣、くせ」がつくだけで、なににもならない。

極端をやるというのは、正しい癖をつけさせるためである。

だから、それを認識したうえで、方法論としては、
(極端な練習)→(ゲームでその極端なテーマの実践)→(テーマにこだわらない、あれも(=テーマ)これも(=テーマの逆)ある、やらなければならない、ゲーム)とこの3過程を経験させなければならない。

ここまでを『押さえないと』この若いコーチが3行の最後のほうに言っているように、「それ以上にマイナス面が大きいと感じます」という「もっともらしい印象だが」実はそうではなく「ここでも、コーチのくふうの問題に帰着するのだ」ということになる。

蹴らせるなら、蹴らせる、つまり徹底であろう、しかし、サッカーのゲームには蹴っては「ならじ」の場面があるわけだから、それにもかかわらず「蹴れ、蹴れ」というコーチにはある覚悟があるにきまっている、それを選手の知性程度によるが、あらかじめ説明してもかまわない(いずれは、蹴らない、という場面にいく「けれども」今はいざというときに「蹴れれば、ゲームがなりたつのだから」蹴れと、いわば、優先順位のつけかたの問題にすぎない)

またそれを説明しなくても、かまわないと思う、
選手はあるいは不審に思うかもしれない。
なかには勇気のあるやつがいて「コーチ、大丈夫ですか?」ときいてくるかも。

そういう、選手は一見、頭も良さそうだが、ほんとうに頭が良いのは、そこは自分の「コーチへの疑問を、のどもとまで浮上させては、押し殺すようなやつだろう」そちらのほうが頭が「よろしい」(というのが世間ではないか)
ここでの例題は「蹴れ、蹴れの極端の採用」にその反対で「止めろ、止めろ」という練習の極端もむろん、あって、「で、練習ゲームで、蹴れ、蹴れのテーマ採用をして、そういうテーマでいくからには、」「止めるやつがでてきたら、」則、交代だろう。
そのくらい、コーチは徹底しているのだと、グラウンドでの、総帥たる「コーチの言う所は、信じなければならない」「信じなければ、信じるまで追放だ」と。しかし、ここで終わったら、麻原ショーコーだ。

コーチには、先があるわけだから、練習で蹴れ、蹴れの反対テーマを徹底して、この二つで、表・裏がとりあえず、教えたということにする、そして、さらに先に行って、
で、その次に、選手に「結局サッカーは、とっさ、とっさの、だましあいなのだから、最後は、蹴るか?止めるか?、選手が決めるのだ、決めてよいのだ」とする。ゲームをやるのは、選手である、それがサッカーでは良き、古典となっている。

そして、ゲームの中で、テーマの追求もあれば、テーマを追求したら、相手にそれを止められる、「ならば」テーマの逆をやればよい、という、そのふたつながら(実際はもちろん、もっと複雑、ニュアンス、ニュアンスの連続だが)そういうことを、やる、ゲームを与えてやるしかないだろう、同じことを繰り返し言ったが、この若いコーチの『それ以上にマイナス面が大きいと』「思うの」は、結果的には、若さではなく馬鹿さを表した、といえる。

もうひとつおもしろいことを言っている、部分があるのでさしさわりのない、ように下記にコピーした。

DFに関しては、その時々の状況での優先順位を教えていかないと選手は整理がつかないのかと感じました。 マークをするのか、 スペースを埋めるのか、 フォローに入るのかあらゆる状況ですべき事を手取り足取り教えていかないと、 いけないのかと。

ある場面で、 XXが左サイドにいて、相手選手が(こちらチーム)のMFからボールを奪い、ドリブルでXXのいるスペースへ進行してきた。
すると、XXはその選手のスピードを落とすようなディフェンスなどをするのではなく、自分がマークをしなきゃいけない相手FWの選手を 真っ先に探してそのスペースを空けてマークをしに行った。
当然そのドリブルしている選手は何事もなくそのスペースをつき、(こちらチーム)のSWと左MFが遅れてチェックに行った。
この場面がちょうどハーフラインから少し(こちらチームの)陣内に入ったところでのシーンだったので、そこまでピンチにはならなかったものの、 まずはドリブルの選手にチェックに行き、スピードを殺し、XXがマークすべき選手はSWがマークして順順にずれていけばよいと思うのですが、そこらへんの整理がないのかと感じました。

ひとつ「コーチからしたら」なんでそんな事態が起きるのか?基本以前の問題として、このXX君の行動をいぶかったわけである。
ただ、ここも、最初にあるように、「あらゆる状況を手とり足とり教えなくてはならないのか」と思ってはいけない、ということになる。

よその、商売人コーチについては知らないが、自分ならば攻撃のてほどきから練習を始めて、いつかの時点で、守備ということで最初にとりかかるのはこういうことである。

1) 相手のロングボールが高くやってくる場合の、個人の守り方、味方守備戦術がどうだこうだというのは置いて、今でいえば「鹿島の秋田」のようなタフ・エアー・ファイターに、個人個人が進歩していくことを、好む。当然そういう練習が優先順位でファースト。

2) 相手がふりむいて、ボールを足元に置き(グラウンド)、そこからいろいろ攻撃をしてくる状況に、いかに耐えて守備をする、という場面、局面の練習はほとんどしない。そういう条件の攻撃練習はやるから、その裏表紙で、守るほうは守備練習やっている、といえばやっているが、誤解をおそれずいえば、そうやってふりむかれて「では守備はどうするか?」基本的なことはむろん教えられるが、いくらその基本を練習でやっても、おおかたの攻撃は止まらない。

3) というのは、そういう「攻撃練習で」相手がいわば一般的な守備の方法で「こう守ってきた」ならば、コーチは「その守り方は、こうやって、つぶす」『ああ守ってきたら』コーチは「その守り方は、ああやって、つぶす」というようにあくまで攻撃、攻撃に傾くからである。「こう攻めてきたら、おいおい、ああ守ればいいじゃねーか」と「ばかり言うのは」コーチとしては悲しい、という信念、もある。

4) それから、次には、相手の低いところ、こちらの、高いところでの守備の、このチームなりの、やりかたを決めて、それに連動して、相手のボールが、前に(こちらに)くるなら、徹底してリスキーでもかまわない、「インターセプトねらい」(このあいだどこかの高校のコーチが、「ねらいどりだ」、と叫んでいたが、正しい表現だろう)の、守備を練習させる。

以前に述べたが、高いところでの守備→高いところから、の手数をかけない速攻は、不分離のテーマである。高いところで、冒険をしてとった、ボールをさげてしまっては、無意味だというか、勝負ではなく、保全だろう、相川はだから選手にはくりかえし、高いところでとったボールを、少しあわてて、「どうボールを走らせるか」で、ぶれて、また相手に、とられても、いいではないかと、言っている、いわば、この瞬間は、武芸者がたがいに「居合抜き」で決着をつけるようなものだ。居合抜き以外にもいくらでも剣法はあるだろう、だが、その瞬間は、居合で決着をつけにいく状況だから、他のことは考えさせない。

5) しかし、その「こちらの意図」が相手の「プレスはずし」がうまければ、失敗して、こちらの最初の守備がなくなる、さー「そのあとはどうしようか、どう守備をするのか」ということを、一言で「普通の、古典的な守備をしよう」としている、ここで「あいてから、ボールをとる・奪う」ということをしすぎれば、「あがりかけた相手のスピードがよけいにあがったり」「あいてに取り残されたり」「相手が数が多かったり」要は、守れないことがおきてくる、だから言いかえれば、守備は第1(守備モード)があって、で、第2守備モードがある、という、(最後にエマージェンシー・モードもあるだろう、が、きょうはそこは語らない)ように選手に説明させて、むろんゲームを経験させていくわけだ。

この若いコーチが描写した守備における、問題場面が「相川がいうところの、第1モードが崩れて、そうなったのか、それとも第1モードなどまったく、なくてこうなったのか」そこがわからないので、XXのとった行動がおかしいのはわかるが、ではそれをどうやってチームに適切な守備行動「とはなにか?」を言えないのが上にあげた理由からである。
けっして、この若いコーチのいうように、「何から何まで教えなくてはいけないのか?」と言う問題にはならない、換言すれば、コーチが舞台(守備のための)を明確に設定して、その舞台のうえで「どうすべきか?」を教えればよいだけだろう。

第1守備モードでは「思いきって、とりにいく」ということが励まされるが、第2守備モードになったら、「身体がいれかわらなければ、とりあえずはよし」とする、というその変化を実は、選手があまり『意識していなかった』ということ、また第2モードになったときに、も、むろんボールが一番危険なわけだから、ボールによせて行く、こちらの選手が、つぶれにいく、そのタイミングを、後ろで、カバーにはいった選手が、『コントロールしなければならない』あるいは場合によっては、ボールにダブル・マークにはいったりを選択したり、とここでも問題がいろいろと広がる、ひろがるが、ここの守備の方法は、古典的である、サッカーを知っている人ならば、だれでも理解できることである。

だから言いかえれば、トルシェがやった、あるいはズデンコが好む守備というのは「こちらのゴール前に、ボールが来たら、確率の問題としてはこちらが失敗する可能性、蓋然性が高くなる、それゆえ、相手の陣内で、守備を強調するというものであろう。

そして「連動への、夢想はひとりでに舞い上がる」というわけだ。
連動はよろしい。
自分も、最低限の連動は求める、しかし前3人とそのうしろ5人が、見事に連動しているのを見ても、『阿呆か?』と思うだけだ。

今読んでいる、隆慶一郎のちゃんばら小説のなかにもたまたまでてくるのだが、長篠の戦いというのがある、要は、昔は種子島といわれた、鉄砲は、1回に1発の発射でかつ、火縄銃だから、火薬に点火するまで、時間がある、織田信長はそこで、この長篠で木柵を組み上げ、有名な武田の騎馬隊をまず足止めにし、3組の鉄砲隊を組織して、順番に銃弾を武田騎馬隊に撃ち浴びせたというわけだ。
撃たれ浴びせられたほうは、最初はなぜ、火縄銃の弾丸乱射が起きたか、わからなかったことだろう。

それまでの戦術なら例え相手が飛び道具をもっていても、相手の銃による攻撃にタイム・ラグがあったわけだから、そこをつこうということであったろう。
ところが、まるで機関銃を浴びたような、その場面では咄嗟には、反攻のアイデアが浮かばなかったと推定できる。
連動が(この場合は攻撃で)生きたわけだ。
しかしそれもいったん相手に意識されたら、相手はかならず、その弱点を探しだすだろう。

守備で連動もほどほどにしないと、どう考えてても、サッカー・グラウンドを人でうずめつくすわけにはいかないのであって、守りは攻めに破られ、攻めはいつかは守られる、という自然の流れを無視はできないというだけであろう。
(この項終わり)