WCup予選:イラン戦 1:2で敗退

2005年3月25日(金)

いや、この敗戦、結果としては「まだこれから」で、今の所3位だ「から」埼玉で対バーレン、プレッシャーかかるとかいうやついるけど、プレッシャーなんか、いつでもどこでもかかるわけだから、どうということもない、ただ試合内容は「まずかった」と思うよ。

まず、日本がイランの、中央縦に「やむをえないのか、しかたがないのか」縦に高いボール蹴っても、まずイランの高さ対策は、安定していて「ここからは崩れない」という感じした。

すると、なかた、のように、ロングをサイドに出す、ということになる。

なかた、が「そうせざるを得ないのか、どうか」は別に、中央だろうが外に散らそうが、どちらにせよ、なかた、のアイデアによる、わけだが、そもそも、ロングが好きな、あるいはロング「しか」出せない(がゆえに、イタリアでは、彼は典型的なボランチなんだと、今の所属チームの監督がいうわけだが、本人はトップ下にこだわっているとして)なかたよ「中央」というか「たまだ」と「たかはら」をどうきみはつかえるのか?と聞きたいし、ジーコには、監督ではなくて、選手ジーコだったら、「あなたならやはり、たまだ、とたかはらは、中央にいるから、サイドに散らす?」と聞きたいし、それとは別に監督ジーコとして、「たまだ、たかはら」以外に、飛び出す「やつは」だれなの?とききたい。

その参番目の動きがあるから、勝てるとかはいわないが、変幻自在という(ただの言い方で、感情がはいりすぎだから)相手に驚きを与えるというような動きを演出していくことが、攻撃戦術の、究極じゃないのとして(事実、1-1になったとき、スコアしたのは、ふくにし、=ボランチであって、ある意味、そこに、なかたが「はいってきても」それは相手にしたら、ほりえもんではないが「想定内」、ボランチがというか、あまりゴール前にはいってこない、やつが、はいってきて、で、イランは驚いた、この驚きを演出するということが、攻撃の戦術であると、自分など思っている。
そして、参番目の選手を指名するか、自然に、だれかにまかせるかは別に、考えてあたりまえだろう。

2002年の代表では、3番目に、飛び出すやつとしては、ご存知、「もりしま」がいたし、「なかた」自身も「自分がパスをだすのでなく」「シュートをねらう」ということも、できる、そういう選手であったが、きょうは、パスばかりだしていた。
これを「トップ下、意識しすぎ」だと、いうわけである。

悪くないんだと、ハーフタイムにジーコが言ったそうだが、そんなことは「ない」という1つの理由が上述の指摘になる。

なかた、にも、しゅんすけ、にも自由にやってよいという「ように」わたしには思えたのだが、それは別に悪くはない、けれど、「しゅんすけ」に自由を「あたえたからといって」、だから「なにが、起こるの」と思うけれど、世のしゅんすけフアンはどう思うのか?

別にしゅんすけの個人攻撃をしているのではなく、では「しゅんすけ」がボールをもったとして、「だれが受けるのか」そこらへんがわからないように見えた、だから」このことは、監督に聞くべきことになる。

戦前、ダエイがこわい、マカダビキアがこわい、アリカミリがこわい、といいうような論調であったが、ハシミアンに2ゴールいれられた、バイエルンが買う選手だけある、ということだろう、アリカミリ、マカダビキアも凄い。

一方、どこかで日本人の評論家がまたばかなことをいっているのだが、ジーコはなぜ欧州組みを買うのか?

それは、ヨーロッパにいって、厳しい環境でサッカーやっているから、だと(本人がいっているのか、そいつがいっているのかわからないが)それは、ほんとうかい?と思う、だって、高校のチームつくっているときだって、11人いて、その11人のなかに、いわばナチュラルリーダーとでもいうような、(自発で、やってやると思いこんでいるやつ)、とお客みたいなやつ、とがどうしてもいて「そうじゃない、そうじゃない」そんなキャラでは闘えないぞ、といっても、なかなか変わらないということがあるのだが、例えば、どう観察しても、考えても、しゅんすけが、今のレッジーナの、精神的支柱ということではないでしょうが、つまり、「お客様」でしょ、イタリアで、そういう「死にもの狂いの、危機感あふれた生活しているわけではないはずで」
だからジーコの期待はそもそも初めから、そんなこと期待しちゃいけないわけでしょう、と言えないだろうか?

俺が、セレッソを支えているんだ、という意識を多分もっていた、もりしまだったら、別にヨーロッパにいなくても、よいわけだ。

イランはどこが日本とはちがうかといえば、とにかく、スピードあげないという特色をもつ、それだけ、日本がなかなかカウンターをできない、

セルジオが「ひきわけにできたではないか?」と言っていたが、いやそれは無理だよ。
この論調が支配的になることを生産的ではない、とおもえる。
試合後のインタビューで、しゅんすけあたりが、1-2で負けたのは、監督の(判断の)せいじゃないの?みたいな言い分をしていた。
それも自由だが、ジーコは引き分けではだめなんだ、勝つんだ、といいきって、しかし選手は、そのとおり、勝利にこころを傾けなかった、というそういう話になる。
ジーコは偉大なピエロか、それとも正しかったのか?
ジーコがただしいという意味は、「だからワールドカップだろうがなんだろうが、目の上のたんこぶみたいなやつは、たたきつぶせ」という意味かもしれない。それが勝負の世界の鉄則であるということを言いたかったのかもしれない、ここは「わけでも」という計算など「するな」ということであったかもしれない。

1-1で守って、引き分けにできることが100%ではないわけで、実際イランだって1-0でなんとなく「これでこのまま終わりだな」って雰囲気感じさせられた、ので、日本に1-1に追いつかれたわけである。

バーレン@埼玉、はわからないが、北朝鮮が草刈場になってきた。イランが北朝鮮に勝てば、イランのポイントがどうだこうだではなくて、北朝鮮は脱落である。
それでもぴょんやんでの、北朝鮮は対日本には、動機充分というゲームになってしまう、「いやらしさ」があるわけだ。
(この項終り)