コーチが自覚すべき自学練習

2005年3月11日(金)

今ごろは、3年生になる前に、2年生の春休みで、修学旅行に行くケースが多いのだろうか?

日本学園も、来週は、高校1年生だけのトレーニングで、これはこれで、高校1年生の選手にも良い機会であると、つまり、今年の、秋以降のチームのいわば骨格をさがす時間になるので、あたりまえだが、「なにをやるのか?」は2年生相手の練習内容とはがらっと、かわる。

そう、書くと、1年生相手のトレーニング、二人1組で、サイドキックだ、ヘッドだという練習に重きをおくかというと、まずそういう練習はないだろう。

選手に、自発、自学を促す、というのはどこへいっても、コーチの態度として、一貫していなくてはならないと思う。
高校1年生だけの練習でもそこは、同じ。
どうやって、かれらが、自ら練習をしていくか、を「ねぐって、講釈たれても効果はまったくでないだろう」人間はそういうものなのだ、と腹のそこから思えなければ、コーチにはんれないだろう。
プロのコーチがプロの大人を相手にしてさえ、そうである。
金で釣れるかもしれない、と思ってもだめである。

ただ少年達の場合、自学すなわち、自分で練習内容を把握する、ということが、かんたんに、はいかないのでコーチが、サッカーというスポーツを、どうやって1歩1歩のぼりつめていったらよいのかを、やさしく教えていかなければならない。

で、その指示のなかみがコーチによって違うでしょう、という意見というか議論があるから、悩ましいというのが問題であるかのような、仮粧を見せるわけだが、果たしてそうなのか?というのが自分の考えである。
そこで練習の心髄とでもいうような、考え方を導入して、それがあるなら、それを、コーチが自覚しないと、多分コーチも人の子だから、浮薄に流れる、流れに掉させない、ということになる、個々の練習方法だとか、その時代の支配的な、流行サッカーに、足元すくわれるというそういうことが起こるのである。

その自分の考えを説明する前に、長い間、サッカーのコーチやってきて、昔は気がつかなかったが、サッカーも人間がやっていることだから、以下に説明することが、あるのではないかということをまず記した。

その昔、クラマーさんが日本にやってきて、代表をコーチングするだけでなく、全国展開して、少年達、少年の指導者たちにもサッカーをコーチングしていったとき、こういう争論がまきおこった。

それは、インサイドキック論争というやつで、クラマーさんのインサイドキックのやりかたは、シューズのなかで足の指をあげて、そうすることで、足首を固定しボールのスイート・ポイントに足のスイートポイントをあてて、というやつである。

それに対して、「いやいや、そういうように、かたち(足の)をつくっていたら、試合中には間に合わないから」いわば今のインフロント・キックのような、方法で、かつスナップをきかせた足首の使い方をするインサイドキックのほうがいいのではないかという、(わたしなども、そうやって、インサイドキックは、ひねるものだと教わった)まーそういう論争であった。

皮肉でもなんでもなく、そういう論争をまじめに、上級コーチがやっていた時代もあったわけだ。
どちらがただしいかという、ことはこの際どうでもよいと思える。

それからこれは以前書いたことかもしれないが、読売がどうしても日本リーグの1部にあがれず(3年連続で入れ替え戦で負けていた)苦しんでいた、ある夏に、当時は日本リーグ1部の永大産業が会社ごとつぶれて、サッカー部もむろん廃止、で、そこから、ジャイール・マトスというブラジル人のハーフと、キーパーの高田(数年前に胃がんで死んでしまった)が、読売に移籍して、このジャイールから聞いた話だが、永大の練習で、監督(名前は隠すが)から真顔で、ブラジル人なら、(ボールスキルがうまいのだから)右、左のヒールを使って、背中のうしろで、ボールジャグリングできるだろうと、「やってみてくれ」といわれて、困った、という話を聞いた。

「相川さん、ブラジル人だって、最初から、ボールスキルやフェイントがうまいまま、生まれてくるわけじゃないだ(誤植にあらず)、みんな、なにか、おっと感じるフェイントやらボールスキルを見たら、真似するの、そうやって、みんな技を覚えただ、あたりまえだよ」と。

この「あたりまえ」に、日本人がきがつかない時代があった、ということである。

この二つの例は、ほんの一部なのだが、要は、「ただしい、サッカー」(というものはなにか?)けんめいに模索していた時代があって、それは今も続いているということであろう。

ただ、その、模索の途中で、ひとは本質を把握して、というよりは、皮相なところ、耳障りのよいところ、一言で解決したかのような、ところそういうものに、救いを求めやすいということである。
それが、今だって、一見もっともらしい、サッカーの定理だといわれているところに、隠れていない、と誰が言えるのか?

むかし、学生のころ、読んだ、評論家、小林の言葉を借りれば、時代の移り変わりにより、「様々な意匠」がでるが、(その意匠にふりまわされるが)人性の本質はかわらんということだろうというやつである。

意匠を国語辞典でひけば「うまいくふうはないかと考える意」とある、それ自体はどちらかといえばプラスの意味だろうが、小林は、本質的なところを回避して、浅薄なところを次ぎから次ぎへと、へめぐる、というような意味で使ったと思える。
すなわち流行的であるというような意味もこめた。

ついでに言えば、小林は、「様々な意匠」をかいたとき、念頭には共産主義への否定があったはずである、それを読んだ当時の、自分などは、共産主義がどうこうではなくて、小林の言って見れば「世界など変わらん、人間など、進歩もしない」とでもいうような、言い方にひどくおちこんだ覚えがあるのだが、結局は、小林の指摘のある程度の正しさを生きた、ということになった。
まーそれはどうでもよいが。

だからサッカーも同じで、インサイドキック論争、それって昔のことでしょう?馬鹿馬鹿しいですね、ではなくて、「この今も」わたしたちが「なにか、間違えていることないだろうか?なにかうわついた、皮相な流行にはまりこんでいないのか?」そういう視点を持ったほうが良いのに決まっているわけである。

フラットという考え方も意匠のひとつ、流行のひとつ、なのか?それともサッカーの本質をついているのか?というところであろう。

そこで、練習ということに戻れば、
サッカーの練習は、あたりまえだが、サッカーのゲームのなかで、通じなければ無意味なのであって、ではサッカーというスポーツはなにをもって、成り立つか、わたしなどは「サッカーは逆とりゲームである」という昔ペレが言った表現をすべてのコーチは、信条にしたらよろしいと思える。

それがただしいとすれば、どんな練習でも、その表向きのかたちがどうこうではなくて、選手が「いつならば逆をとればよい」「とるべきである」ということが、練習のなかに「くりこまれていなければ」その「(あやまてる)練習をくりかえしたところで、極端にいえば1世紀たっても、逆をとる選手にはならないではないか」

他方、逆をとらなくてもよいからひたすら「強くあたれ」とか「遠くに蹴れ」とかいう、要素もあるのだから、それはそれで、練習することもよいだろう、若い選手にはそのふたつながらが「サッカーの練習ではないのか」というようにしている。

そして練習は「かならず」「実戦に生きなければ」「良い練習ではない」それだけが、大事なことではないだろうか?
その自覚を得る、得ない練習は練習のための練習であろう。
それでサッカーは逆とりゲームという言い方はただしいと思えるが、また同時に、判断ゲームだともいえる、だからスキルをいくら習得しても、そのスキルはある場面で使うと、よろしいが、別な場面で使えば、よろしくない、とそういうゲームである、で、あるからには、フェイント、そして同時に判断ということを教えなければならない、その判断を教えるときに、サッカーは「もう」子供のサッカー、プロのサッカーのあいだのかきねなどあってはならないのだというのが自分の考えである。

ゲームというものは「かくあらねばならない」というイメージを細部にいたるまで「もって」そのうえで、こどもたちに判断のよすがとなる「ものさし」を教え、ものさしの例外を教え、ることが大事である。

判断は正しかったが、技術が追いつかなかった、ということが少年サッカーとプロサッカーを分けるものである。あるいはあるべきである。技術がプロのそれに追いつかないので、妥協的に、「この不足している今」 採用する、ストップギャップと呼ばれる、スキルがある、わかりやすくいえば、高校野球のバントでもいえるか?

そういうストップギャップをめぐる議論は本来的には独創のにおいはすれど、インターナショナルではないわけだから、議論するとしてもこっそりしたほうがよいだろう。

チェルシー対バルセロナいろいろな意味でおもしろかったね。
ロナウジーニョのあのシュートも凄かった、いつまでもいつまでも記憶に残るシュートであると思える、ナイキのコマーシャルでの露出もあるが、遊びで、培った、スキルをああやって、ゲームでだしてしまえる、この選手も凄ければ、なにを考えているのか、わからないが、監督のライカルートも要注意だろう。

つまり組織的な規律はサッカーに必要ではある、しかしとくにフォワードのプレイをしばってみたところで、サッカーはうまくいかない。

このことをコーチになって、そう思うのでなく、現役のころ、そのいわばフリースタイルを「愛でる度量をもったコーチに」見出されて、プレイスタイルを確立した選手はコーチになったら、結局は、コーチの立場で、同じ事を、チームに確立するのではないだろうか?
良いことではないだろうか?

話は全く変わるが、マリノス対ジュビロの試合のハンドで、新聞コメントだが、試合後の山本のコメントはいただけない「その場面見ていなかった、だからわからないとか」そうではなくて「あれは明らかにハンドである」と言えば良いのだ、しかしゴールを認めたのはレフリーであって、山本に何の責もないのである、しかしサッカーでは、ある日はレフェリーに「泣かされ」また別な日は、レフェリーのばかさかげんに「笑いかみ殺す」こともある、それだけのことであって、あれがハンドでなかったら、なにがハンドだとでもいえるのか?

あきらかにレフェリーのグループは責任のがれの奇妙な方向に走り出している。
答えはかんたんで、レフェリーが見逃しました、すいませんでいいのでは?
レフェリーって権威もっているんだぜ、無謬だぜなんて、誰も思っていないのにね。
(この項終り)