コーチの辞任あるいは解任

2007年3月07日(水)

ちょっと前には、アメリカのミルウオーキーに本社を置く、医療機器の製造・販売企業の日本支社長なんてことをしていたわけである。

ただ、日本では代理店を使って、商売していたから、自前の営業、自前のオペレーションを展開ではなくて、そうではなくて自前でやりたいなんて、その気持ちは、アメリカにもあってそれこそ、三井物産に日参して、物産の金で、営業販社つくろうなんて、企画のもと、動いていたなんて日々もあった。

だから仕事は、まー暇といえば、暇であった。

それでいて、給料はよかったから、月曜日の夜から、赤坂で酒呑んでいた.。

ある夜、乃木坂に向かう、赤坂通りに今は、まるで幽霊ビルみたいになってしまっている、56丸源の8階にある、韓国クラブ、ダイヤモンドで、騒いでいたら、香港(のアジア本社の社長、レバノン人と英国人の混血で、前職は、HPの辣腕マネージャーのスインソン氏)から携帯に夜10時すぎくらいであったか、電話があって、「相川、われわれの会社がたった今、GEに売られたぜ」と言ってきた、そのとき、確かに腰をおろしていたソファから転げ落ちた、ことを覚えている。

人間は経験だ。

マイナスの経験とプラスの経験のないまぜで、「今の自分のおおげさにいえば世界観」がある。

GEというのはGeneral Electricのことで、世界でもトップクラスの、だがえげつない商売をする企業で、それからおよそ1年、同僚といっても、オーストラリア人だとかインド人だとか、アジアのほかの地域のマネジャーたちと、香港で酒飲みながら、さて、このさき誰はどうなるのか、おまえはどうするのか、妙に、こころかわした、会話などした記憶が懐かしい。

だがそれはコーチング日記と関係ないので、割愛。

そのときの、自分はある意味で徹底的に駄目であった。
いや仕事をサボっていたわけではない、十分に仕事はしていた、しかし、自分の会社を日本で発展させようと自分は思っていたのだが、会社のオウナーは、はやい話が、自社の将来にみきりつけて、本人は、250億なにがしの金をGEからてにいれて、売り払ったわけで、あったのだが、そういう「しかけ」というかプロットがまったく読めなかったそこが駄目であったということである。

先の、物産の担当者をつれて、ミルウオーキーまでプレゼンにでかけたりしていた、そしたら、そのプレゼンの会議の途中で、社長が退席してしまったわけである、つまり、日本ではとりあえず、相川に物産との、ジョイントの話をさせながらも、もう一方ではGEにバイアウトの話を、同時的に進行させていたわけであるがそのときはそれを知らないから「なんで社長は退席したのかなんて、のんびり分析していたりしていた」そこでおかしいと今なら感じるだろう。

脱線するが、さっき北朝鮮はきょう、ベトナムで行われている、6者協議のワーキング部会の、日朝交渉を午後キャンセルした、やっぱりね。
予想できたことだよね。
どうするのかな「安倍ちゃん」
いやそういう北朝鮮に日本人はこれからどうして行くのかな。
まーそこは、コーチング日記には関係ないからもとにもどって。

いやそれが「今でもいやだというのではない」そういうことが資本主義下では「適切な行動なわけだ」相川なんて、アメリカから見たら、ただの、将棋の歩でしかないわけで、それを恨むきもちもまったくない、実は個人的に、アメリカのその創業者社長の個性、相川嫌いではなくて、今でも「いやあのおやじなつかしいね」とも思っている、

1965年に、友人5人と、500ドルを元手に、その会社を設立して、最初のころは、エレキギターのアンプなんかを細々と作っていたとか、シカゴのノースウエスタン大学の、循環器内科のドクターから、心電計をコンピューター仕様でつくれないかと、オーダー受けてから、確かに、ハイエンドの心電計の業界では、世界ブランドになった。

社内報に、それでも「自分=社長は、あの創世期のころ、徹夜明けで、仲間と、ミルウオーキーのダウンタウンの酒場からはいでてきたときにみた夜明けの街並みと友との交流の喜び、その喜びがあったその時代のほうが、今よりはるかによかったというようなおやじである」

その250億を4度目の結婚の奥さんとどういうように使って、どういうように今は生きているのか?いや他人の人生をどうこういう余裕は、相川にもないが、今仮に会えば「Hai,Mike How has your life been?]といいたくなるような、おっさんである。

さて自分の会社をGEに売り払う、プランを着々と進めながらも、日本にはそれをつゆほど知らせず、相川には、物産とジョイント企画を進めるように、指示をいれて、あわれな相川は、その線で動いていた、そこへ、赤坂の夜の、雷撃であった。

3月7日の日刊現代を読むと、釜本さんが、反町ジャパンの対香港戦を「批判している。その批判の中身は、置くが、日本サッカー協会の副会長が「監督の意図が全く不明」とか「このままでいくと五輪連続出場は難しいかも知れない」と文章を締めくくっているのだが、これは看過できない記事である。

というか、きょう同じ日刊現代に今度は、川渕会長のコメントで、反町、今度の(正確な引用ではないが)予選の試合で、へたこけば、解任というように読める記事が出たわけである。つまり、正式な(解任の)プロセスがまだ、起動し始めたというわけではないのだろうしかし、副会長と会長が「反町じゃ、だめそう」みたいなことを言っているように見えるわけだから、これは、すでにして、なにかの、いわゆる空気が醸成されているようである。

釜本さんのいいかたのなかに、「香港戦程度のパフォーマンスなら、試合前日に集まってそれからポジションを言い渡しても十分にやれる。合宿で何をしたのか、いっしょに練習して何をして何を植えつけようとしたのか、これもまったく伝わってこなかった」とある。ここは、一般ピープルが読んでも、さらっと読んでしまうようなところだが、コーチからしたら、これは「反町、おまえはコーチの仕事してないんじゃないの」という意味になる。

いや、相川もそう思ったくらいだから、釜本さんの言うこと、よくわかる。

反町氏が「無能かは、まだわからない」しかし釜本さんが言いたいことは「反町、おまえが仕事している、さーどういうのか、かたちを見せたら」ということだと思える。で、それはそのとおりだ。

あの対香港の試合の中身では、仮に相川一日前に、あのチームを引き受けて「つまり逆に言えばコーチが自己弁護しやすい条件だ」「チームつくりには時間がかかる」「にもかかわらず、練習1日」「それで、相川の色だせ、そんなことできないですよね、」「そんなことできないの釜本さんもわかりますよね」というようなこと、言わなくても、だれでもわかる条件で、ひきうけて、でしかたがないから、「選手にお前らの好きにやれ」とでもほかに言いようがなくてピッチに送り出したら、選手に好きに、やらせたら、ああいう試合になるわけである。

と、あれは、そういう試合であった、どう考えても、それはまずいでしょうに反町さんというような試合であった。

自分が、積極的に「仕事やっていてさえ」自分ではない、ほかの誰かの頭脳のなかに宿る、こちらにはわからないアイデアで、失業することもあるというのが、この論考の最初のまとめである。

その逆に、ある程度現場をまかせてもらって、それでいておのれの、無為あるいは、無知ゆえに「落ち行く先に、自分から滑り落ちていく(反町のような)やつもいる。
いやまだ落ちたわけではないが。

なにがポリバレントだというのかだよね。
それって、オシムのぱくりだよね。
メデイア向けに「なんか実態のない言葉を吐くのでも」なんかひとのコピー、それじゃまずいだろう、でしょ。

ずっとコーチング日記休刊状態であった。

2006年の4月から王子にある、駿台学園の指導を拝命したわけだが、少し、その間の事情をつまびらかにするのをはばかられる、状況があって、「いってみれば、自分のコーチとしての、裸の日々を、書き出せなかった」いや今でも、用心しながら、書いていくわけだが、(何に用心しているかは、読者の想像におまかせするが) とりあえず、相川、駿台のサッカーを見ていますとだけ言える。
その駿台、4月の最初に、暁星と関東大会に2回戦でぶつかる。

東京の高校は公式試合、人工芝の会場が多くて、これはほんとうにすてきなことである。対暁星の試合も高尾の実践の人工芝グラウンドが会場である。

日本学園のときは、記憶している限りでは、その実践が東京代表になったとき、も、その実践と、雨上がりの、泥田グラウンドで1-1わけ、PK負け、お世辞だろうが実践の監督が、そのあと勝ち進んでいくのだが、日本学園の試合が一番苦しかったといっているとか、その次の年次も、やはり都立国立で、泥田のグラウンドで、久我山にたたかれ、というように、雨だと、普通は、室内で体力練習みたいになるところだが、公式試合になると、泥田でやるということであったのが、人工芝で公式試合になる、ということが、スキルが前面にでてくるわけだから、やはり楽しいといえる。

3月03日(土)小学生の子供たちを対象のサッカー個室があったので、埼玉の和光に行ってきた。セッションのあと、昔、この地区で指導してきた、昔の小学生、昔の高校生が、夕食の会に集まってきてくれた。たぶん、こういうことがコーチの悦楽であろう。

ひととはちがった、人生を生きる、あるいは生きた、その結果、ひととはちがった「よろこび」を、享受する。
土持さんそういうことではないでしょうか?
つまり土持さんというのは、むかし読売で選手して今は、相模原で、指導者している、本人がこの前の日記を読んで、返信してくれたそのなかに、(サッカーやってずっと貧乏してきましたって記述があったわけだが)相川も、その例にもれないそれはそのとおり「だが」サッカーやってきて、金、金ではない、人生ではあったが、だからこそ、余人には味わえない「楽しみ」を今も味わえるのでは、と。
(この項終わり)