コーチの判断、練習への取組み

2005年3月05日(土)

ある少年コーチのかたから、メールいただいた。
実名等伏せてあるが、下記にそのコピーがある。


XXXで小学生のコーチをしているXXです。

今年からわれわれのクラブでも、U-12、U-10,、U-8でのチームづくりを取り入れています。

多分、日本サッカー協会の情報等から、このような組織に変更していこうと考えたようです。

われわれのチームは1年から6年まで、90名以上いてコーチもボランティアというかたちで15名ほどいます。

所属はXXX区なのですが、公式戦は各学年別に行われています。
3つのカテゴリーにわけると、30名ぐらいになるのでそのなかで、実力別に3つに分けています。

このメリットとしては下記のような説明がありました。
1)能力のある子を伸ばす。能力格差があると「天井効果」を生む恐れがある。
2)練習効率がいい。(それぞれのメニューでついていける子とそうでない子、できる子はさらに難度の高いメニューへ。まだ、同じメニューの繰り返しが必要な子はその継続。)


それに対するカウンターの意見(とくにわたしなのですが。)は、

A)能力のある子ない子、だれがどういう条件で選別するのか。日本代表でもそうであるように選別される子はコーチの好みの選手になるのでは。

B)「天井効果」とあるが果たして、そんなことを心配するレベルになっているのか。案外、「できる子、できない子」の差は小さいのでは。その効果を心配するほど、彼らの将来に配慮できるのか。

C)明らかに、試合に出場するチャンスの減る子がでてくる。小学校が母体のクラブなら、そこへの参加者は試合出場の権利があるのでは。(試合にでれるかどうかは別にして、試合に出場するチャンスを奪うことができるのか。)

D)2)については賛同できる部分があるが、それならコーチの指導力はどうなのか。明らかに、子供たちがスキルアップしていけるのか。そこへ子供たちに責任の転嫁がされていないか。

わたしの疑問は、基礎能力を養う世代で、そんなに天井効果を心配する必要があるのか。そんなにすごい選手がいるのなら彼らはJの下部組織へ行くのではないか。

以前、相川コーチからの指摘があったように、コーチがやるべきことをやっていないので、SKILL UPがはかれないのではないか。

とかく、コーチは自分の練習メニューを批判されることを嫌うし、また、批判する場合でも「俺の考え方と違う」的な部分での批判が多い。

そこは、ボランテアコーチの悲しい部分で、だれもメニューをオーソライズできず、各コーチがそれぞれ独自のメニューをつくっていて、それが継続性、連続性がないのではないか。

それを仕切るものがでると途端にモチベーションをなくすものがでてくる。
いちばんむずかしいのは、逆説的ですが、コーチの統率と意識の改革でもあるような気がします。

また、現在までこれだけクラブ員が増えたのは、いろいろな子が混ざって、いろいろなチームの特色がその都度でき、それぞれのウィークポイントをみんなでカバーしてく子供たちの姿勢が入ろうと思った子供たち、その父兄の賛同を受けたからだと思います。
体制を変えたくない保守派のようですが、現に公式戦ルールが学年別であるなら、それに従ったチームづくりになるのではないかと思います。

わたしはいずれコーチは勝敗に執着して「楽しいサッカー」が消えていくのではと心配しています。

相川コーチはどう思われますか。とくに、年代別の分け方、その目的等の考え方、小学生でのサッカーという観点からご意見をお伺いできればと思います。


XX


小泉(首相)がよく国会で、自民党から「公共対策にかねだせ」というような質問うけて「今の景気の好調さ(これが本当かどうかはこの議論になじまないが)は民間が活力だしているから、民間が元気だしているから」っていささか得意そうに、いうのだけれど、あれ聞いていると、「それはいいさ、で、あんたは、その民間の元気つけに、どんなことしたの?」と思わず半畳いれたくなる、むろん、もしそう相川さんが国会で質問したら、小泉は「さてこそ、規制緩和であり、なにも(政府が)やらないこと、やらないように、(わたしが)しむけたから、民間が元気をだした、」というであろう。

なんかおかしいんだけどね。

国政における、中央集権と地方自治という対立用語は、サッカーにおける、協会の指針対民間の自由な創意くふうというのと、同じであろうか?

牛を食べたら、狂牛病になるというようなことは、このあいだ実際にヤコブクロイツエル病で日本人ひとり死んでしまった、というその20年も前から、知っていた。

いや、自慢したいのでなく、狂牛病がイングランドで世に表れたころから、医学雑誌には、研究論文でていたのである。

偶然、そのおどおどろしさに、関心あって、整形外科医学の記事を読むしごとであったのに、その狂牛病の記事を読んでいたりしたわけだ。

それで、ヤコブクロイツエル病なんて病変の名前覚えた。

アメリカから、肉牛を輸入するときに、緻密な行政の検査は、こうなれば、必須であろう、というように誰でもが思う、言って見れば、商品というものが企業の善性を信じ、そして市場原理にまかせるだけで(ほしいものを売る、という単純な過程がいわば原理)は、うまくいかないこともあるので、行政の関与ということが、よりどころになる、ということもあるわけである。

すなわち、官が存在する理由?

官は国をカバーすれば中央集権だろうが、横浜という地方だって、国に対しては、地方だが、横浜市は、横浜市民にたいして、官であり中央(とはいわないが)要は、コントロールをしてくる。

これを書いている時点では例のライブドア対フジテレビの、敵対的企業買収の騒動の行方まだわからないのだが、ひとつおかしいと思えることは、放送等マスメデイアが「外国資本」にのっとられては唯唯という説をのべるやつがいることで、これを聞く限りでは、いかにも言論の自由が日本では保証されているかのような、前提でものをしゃべっているのだが、そいつは「本当かい」って、自分なんか思う。

だって逮捕された堤さんあたりが、長野オリンピックで本人がそうしろといったかどうかは別に、帳簿の棄却なんて、ことやらせたというような」、ことが噂されても、大マスコミだれも、とりあげなかった。

この国のメデイアなんか、もうとっくに、メデイアとしての機能は自分で放棄していて予定調和の論調たれながしみたいになっていることが、むしろ議論のスタートであって、堀江のうしろに、リーマンブラザースがいるから「さてこそ外国資本における、わが国マスメデイアの、支配だ」と「言論の自由にたいする挑戦だ」と言われてもね。

吉本興行に支配されている、テレビの番組が言論統制くらっても、むしろせいせいするといったら、そんなことを言えばやがては、個人の言論も封殺されるぞって、旧左翼が大騒ぎするだろうが、なーに、個人の言論なんかとっくに封殺されているのが、今の世の中じゃねーのと。


仮に、リーマンの裏に、荒唐無稽だが、アラブの資本がはいって、フジテレビで、朝からコーランながせ、女子アナは、はだをみせるな、みたいになっても、それがいやなら、アラブのシークにそれに倍する金はらって、かぶ買い戻せ、というのが資本主義の鉄則で、つまりは、堀江がしかけたことは別にどこがいけないの、ということじゃない。

それでもシークが(首長)経済的には、日本に株売りもどして、メデイアの所有権を日本企業にもどしたほうがもうかるのに、政治的理由で、売らないとしたら、だからそこで政治の介入である、が北朝鮮問題で露出したように、日本は政治のとくに外交が「できない」わけであるから、ここまで書いたことも、絵空ごとである。

脱線すればとめどないのが、コーチング日記だが、元へ戻れば、中央が支配したほうが良いものと、支配してしまえば、(民間の)多様な、エネルギー、創意くふうのほんとうに、ふつふつとした吹きあがり、それを、消してしまう、圧殺してしまう、そういう悪例いくらでも歴史の上で学習できる。

だから、中央で、あるデザインをするひとに歴史の学習を、衆生はのぞむのだが、日本サッカー協会にそういう人物がいるのかどうか?
はなはだこころもとない。

で、わたしはといえば、あたりまえだが、衆生の海を信じる「一派」であって、官による、支配を基本的には嫌う「一派」である。

サッカーの世界では、官の統制一派だろうが、衆生の海のなかにひたる一派だろうが、「負けりゃあ」だれも聞いてくれないので、殺されることもあるが、官の歴史にのったからといって、墓のなかで、うれしいことなんかあるわけないじゃないか。

生きているあいだが、人生で、その人生のうえで、官の側にいて、旗をふるうことも、おのれのエゴを満足させることでもあろうが、自分は衆生のなかで、衆生のだらしなさ、衆生のなさけなさ、衆生のあたたかさのなかでひたっているやつだから、官には興味はない。

ただ、官のほうは自分が負けても、強弁して史書に、つごうのよいことを書くことはできるというだけだろう。

あるいは都合のわるいこと、書かないという。

さきほどの狂牛病の例ではないが、官の存在が必須という局面もあるのだから、かならずしも、官は悪であるということもない。

しかし官がでてきたら、あきらかに、マイナスという現象は枚挙にいとまもない。

XXさんに、相川そういったサッカーとはちがうエリアのことも考えているぜと、言った上で、XXさんの、提起した問題に自分のコメントを加える。

○→練習は協会式でやろうが、個人の自在な式、でやろうが、練習それ自身が内在させる、心髄とでもいう「性格」をもっている。

それを一言で言えないが、「練習が、試合のいろいろなプレイにむすびついているな」という選手自身の実感を、結果もたらさない練習は、その日は(その練習をやった日という意味)一応、練習でさえ、選手は敗北ということではないだろうか?(そのマイナスを反省して翌日、別な式で練習にのぞんで、練習で勝つということもあるから必ずしも、無駄ではないのだが)

むろん少年にはかかる自覚はうまれない。

だから、どんな式を少年にぶっかけようが、やがて、自覚という人間的行為がうまれるまで、できれば、人間の自発、自学というエネルギーを、少年時代に壊さない、ということが望ましい、それだけが大事であろう←○。

XXさんの言われることみんなただしいのだが、あるコーチは思想貧弱で、またあるコーチは、他人を受け入れない、とか、あるコーチは自分の練習方法(式)以外信じないとか、それhどこまでも続くだろう。
それに対して、どう考えるか?
自分の答えは○→←○に集約されていて、それ以外に答えはないと思う。

良い選手とは、どういう選手か、コーチの年齢、コーチの知的レベル、コーチの勉強加減、コーチの狂信度、むろんそれらで、選手が右往左往させられる。

しかし、それは、ではいわば客観評価とは、なにか?ということをさがして、確定して、ということになるのだろう?

それが仮にあっても、現場では依然として、人間が関与することで、良いも悪いも、人間くさい、ことになるしかないと、自分など思っている。

自分の頭が壊れて、自分なりの、選手評価が世間的には「相川ちがうよ」という、日々がきてしうかもしれない、しかし、実は、選手の評価ということは「試合をしてみればわかるというか、まずは試合という場で」見えるものが、実力である。


少年の場合、あきらかに、「今、ある相手とやったら」「とてもじゃないけれど試合にならない」ということが多いであろう、公式試合ならともかく、練習試合で、そういった、「ほどよい相手ではなくて」「負けるのがあたりまえの相手をつれてきてしまうのも」マッチメークのミスで、コーチの責任であろう。

そういう試合で「出てくるマイナス、でてこないプラス」それらは、あまり意味がない。

この相手なら「サッカーになるだろう」という相手と試合して、ある少年選手が「だめなら」いくらその選手が昨日の練習でよかったとしても、「彼は、だめである」そういうことになる。
いや、おとといはよかったから、といって、その選手を弁護するコーチがいてもよいが、このやりかただと、主観というかえこひいきははいりにくい。

少年選手を長いスパン(5年とか)で判断すると言うこと自体、実は機能しない。
なぜって、例えば「わが軍はあきらかに、まだ体力がない」それは「2年経過したらつける」そういう考え(スパンを長くとって)でもよいが、そこで、たとえばマリノスの少年チームと試合してしまう、
こてんぱんに負ける。
我が軍の全員が体力もスキルもまったく無惨に見える、しかし2年後に見ておけ、とコーチは言う、ここに「誤り」がある、なぜかといえば、選手の心理というエレメントを意識していないからである。
負けることは悪いことではない、しかし負けることから、挑戦しようという選手の自発をひきだせなければ、ダウンスパイラルにはいることが通例だから。

駄目な理由が、スキルにあるのはわかっているだろうが、ではどういうスキルなのか、多分そこで、経験のないコーチは、「ここがだめ」ということを特定できない、なぜなら、サッカーの試合は、判断ゲームだから、わかりやすい言い方をすれば、大きく蹴ったほうがよいという、場面と、短くパスしたほうがよい場面とあって、大きく蹴ったほうがよいばめんで、ある選手が「大きく蹴った」がしかし、まったくとばなかった、ケースで「判断OKしかし、技術がともなわなかった」と少年を導くコーチがほとんどいない。

しかし、短くパスすべき場面で、「大きく蹴って、なおかつ」「ボールは飛ばなかった」という場合、「判断だめ」ということをいう、コーチがこれまた少ない。
なんで「蹴れなかった」といってしまう。
やんぬるかなである。

コーチの能力というのは、まずゲームにおける「選手がなすべきただしい判断について」勉強して、ゆるぎない信念をもつところから始まる。

そして、判断が、次ぎから、次ぎへとただしいように、選手を導く、しかし少年の場合仮に(ありがたいが)判断がただしい、ただしいで、きても、実際の、技術がまったく、でない、ということがむしろ現実である、がゆえに、あたりまえだが技術の熟成を練習にとりいれる、しかし技術は、いくら、ふたり1組で、ボールを蹴りあっても(異なる判断を要求される)場面では、その練習が生きない、だからこそ、少年たちは、戦術練習(判断を身につける)を、これでもかこれでもかと経験して成長すべきである、協会式であれ、個人式であれ、そこに差異はない。
(この項終り)