サッカースタイルの原点

2003年2月25日(火)

月曜日(24日)からほとんどの高校生は、試験前なにやらかにやら、で練習は「ない」
自分のスケジュール表を見ると、3月07日(金)にゲームがはいっている、から、そこまでは、いわば通勤はないものの、トルシェのように、その期間はバカンスだ、というわけではなく、普段やれない仕事を続ける。

金があれば、バカンスを望むかといえば、そこは、性格のタイプ依存のことなのだが、死ぬまで、仕事をしていたいと思うほうだから、自慢ではないが、今まで、観光旅行をしたことが1度もないという、極端性格である。

海を見ていても、およそ10秒ですぐあきる。

仕事をして、少し、時間があったら、そこで、息をぬく、というのは好きなので、自分にしてみたら、不思議なことでもなんでもないのだが、よく「夜の街にすーっと、消える」やつだと、言われる。

賢明な読者諸氏は、この日記、要は、サッカーやってるか、その息抜きで、どこかでサッカーから消えているか、そのふたつの記述だけで構成されていることを知る。

そのどちらの時間帯の表現「でも」正確に正確に、という思いにつかれているわけだが、こういうのは、分裂気質の特色だそうだ。

2月23日(日)は、平塚の大神にいって、日本学園対ベルマーレユースのゲームを見た。
大変に興味深いゲームであった。

それは自己陶酔じゃないの?といわれるかもしれないが、一言で言えば、Jリーグあるいは日本協会の主導する、サッカー対読売クラブのサッカーの代理戦争だからである。

長いあいだ、コーチをやっているから、そういうことがよくわかる。

平塚は以前は、ご承知のように、フジタ工業であった。

読売のころは、フジタが先行していて、古前田とか、脇とか少しあとでは、セイハンとかアデマール、カルバリオのブラジル選手たちのおりなす、サッカーを練習ゲームで「やつけられず」理屈のうえでも「さーどうしようか?」という相手であった。

今は、そのフジタの人たちが、クラブの行政でも、グラウンドの上でも、いなくなったので、平塚のたとえユースであれ、そのチームに、じぶんが苦労したころの、フジタらしいね、というサッカーは微塵もない。残念ではある。

と、いうのは、世界のサッカーのなかで、イタリアのサッキあたりが、ミランで、サッキのサッカーを次第に、くみ上げて行った、というそういう理屈を知るのもまた楽しいが、ミラノのチーム(ACミラン、インテル)はチームで、ローマのチーム(ASローマ、ラツィオ)の真似はしないという気質(かたぎ)のほうが、自分には興味があるからである。

2001年に、イタリアへ行ったときのことだが、つれていいたチームをコーチしてくれた主任コーチはACミラン出身であった、年齢は自分と同じぐらい、もうひとり若い、マクシミリアンというコーチは現役の頃、ラツィオのストッパーで、あったというわけだが、食事をしてもコーヒーを飲んでいても、何かといえば、(イタリア語がわかるわけではないが)ミラン・コーチは親指をさげて、「ラツィオ、それがどうした」といわんばかりの態度をむろん冗談で表すし、マクシミリアンはマクシミリアンで、「ASローマ、その名前を聞くだけで、顔がゆがむぜ」というように実際に、唇がヘの字になって、ローマを蔑むわけである。

こういうことは知性のレベルというようなことを考えたら、どういうことなのだろうか?

いい年こいたおやじやらあんちゃんが、ラツィオはノーグッドだ、ミランなんかどうしようもない、というような会話にあけくれるというそれが。

ただ、とにかく選手は代われど、そのチームのカラーは残るというような感じを私は受ける、その感じが、正しいとして、ではその継承は自然現象なのかしら?そうとは思えない。
フジタはフジタらしかった、それをやつけにいかなければならない読売も読売らしかった。
フジタの真似はしなかった。

そういうことが、サッカーの世界では正しいのではないだろうか?

今平塚のユースであれ、浦和のユースであれ、対戦してみたからわかるのだが、みんな「金太郎あめ」みたいである。
ひとつは協会公認コーチがそれぞれで職を得て、「これが真理だとばかり」教条主義を選手におしつけているからだ、ただし「強い」ことは強い。
また選手も「うまい、というか呆けミスはしない」

他方日本学園は別に読売のサッカーをしたいわけではないのだが、コーチが読売のサッカーを(ベースとして)そこに日ごろの研究をうわのせているつもりなので、さきほどの記述になるわけである。
協会式対読売式である。ラツィオ対ローマである。
世界の普遍の「なかに、ちゃんと俺はいるじゃないか」という思いがある。

平塚のサッカーを見ていて、特色はこうであった。
1) ラインで横パス、しかしせいぜい1往復しかしない、その横パスを「はやく」と、コーチがどなっていた、当然であろう、ライン同士の横パスが遅ければ、相手の守備が横への移動を行って、ラインで「つなぐことの、利点を消しにくる」
2) ラインが縦にパスをいれる、わけだが、そのパス先が「なくても」平塚はあまり、悩まない、3-5-2の古典で、ウイングハーフがタッチラインでひらいた「まま」アップダウンのランをして、、ライン(サイドストッパー)からのボールを足元に受けるか、スペースへ走るか、あたりまえのことである
3) それでもウイングハーフにはだせないなら、ウイングハーフがあけた、タッチラインぞいのスペースに、トップが流れる、これもあたりまえのことである。
4) ライン→中央にいるハーフの足元へのパスなどは、そもそも考えていないかのようだ。
5) 中央にいるハーフ→中央にいるトップへのパスもそもそも考えていないかのようだ。
6) 守備では、相川に言わせれば、攻撃でニュアンスを要求されていない分、ボールに5人ほどが、集まってきて、プレスをかけにくる。わかりやすい。
7) ラインはかまえはフラットしかし、中央のストッパーはカバーにはいるから、かまえのフラット、実際は「あまり」みたいなものだろう。

Jの下部組織のユースがどういう大会をやっているかは知らないが、平塚、浦和とやったり、FC東京とやって、結局はその大会のもつあるいは要求する、ゲームのすすめかたに自然に規制されていくのだろう、つまりよそも、フラット、押し上げ、トップフォアチェック、グラウンド横3分の2幅の「なかでの」戦い、というようにくるわけだから、その流行に「のらないと」職業コーチとしての、評価がさがる、という思いになるのではないか。

他方、日本学園はこの試合、前半まず
1)2トップで臨んだが、トップのプレスのかけかたが、現実的ではなく、平塚の3バックに好きなだけ、ロングを許した。で、こちらの攻撃ではなく、守備のテーマ、前が追いこんで、そのうしろでカットの戦法が前半はまったくワークしなかった。
2)そこでハーフタイムは3トップというのではないが、ハーフの随意の選手がこちらの2トップのラインのなかにはいって(あがって、)相手の3バックにスペースを与えない作戦にきりかえ、そしたらとたんに、平塚、バックからのFeedがへたくそになって、互角あるいは60%以上日本学園のゲームになった。
3)ハーフタイムには、その守備のことだけ言った、攻撃はしょせんボールをとれなければ、できないわけだから正直に「守備を修正して、では後半どういうように攻撃できるか、見ようじゃないか」と言った。
4)結果は0-1、後半こちらの右ウイングハーフが、病気のバックパスをだしたところをさらわれ、そのままではないが、くずれたところをいれられた。ただ内容的には、不満はない、そういうゲームであった。

この日のところは協会式が、勝ったわけである。

プレスを続けさせれば、プロになれると、本当におもっているのだろうか?
ラインのあげさげを、言えば、プロになれるのだろうか?

しかし自分はそう言う捨て台詞をはくつもりはない。

この道を歩めば、どこへ行くか、「それは行けばわかる」といった、アントニオ猪木はめずらしく知的である。
そのように現に、行動がスタイルである、人間が、ぼそりという言葉に同意していく自分がいる。

帰りに横浜によって、一品香のたんめんで遅い昼食をとった。

17歳のころの、私は、高校2年の正月に当時は大阪であった高校選手権の本大会に出場できて、そののち、ほかの同級生はにわかに受験モードにきりかわって、「家では勉強できないから」「相川図書館にいくべー」と誘われて、野毛にある図書館についていった、もっとも、根が分裂の私は、そこで勉強するでもなく、呆然として、窓の外に見える、根岸の丘陵を眺めていたり、裁判記録なんてものを読み漁ったりして、時間を殺していた。

心のなかでは、高校3年の冬の正月選手権をめざそうか、どうか(めざせば確実に浪人)ということに心がいっていたわけである。

それで、夕方、じゃー帰ろうか、ということになる、野毛の坂を降りて日の出町の駅のほうに歩いていくと、カウンターに5人が座れば、満席という一品香によって、湯麺(たんめん)か焼そば(ちゃおめん)を70円で食べて行くのが日課であった。

のちに早稲田の学生になって、東京に通いだしたころまっさきに驚いたのが、東京で食べる、たんめんに、にんじんがはいっていたことであった。
聖なる一品香のたんめんはいまでも、もやしだけ。

この世の幸福というのは何だろう。
すりこみではないかと、考えている。
野毛の一品香はそののちどんどん企業的に拡大して、いたるところで、店舗をかまえた、ただしどこへ行っても、その高校生のころ、経験した、たんめん、ちゃおめんの味には再会できない。

私の舌には、その1号店の味が「すりこまれていて」死ぬまでにもう1度、あの味に逢えたら、という思いがある。それがわたしの幸福だと。

昭和の21年ぐらいの生まれのやつ、というのは、みんなそんなものではないかと、私はひそかに、睨んでいる。
(この項終わり)