春休みの練習テーマ

2005年2月23日(水)

K1とかプライドとか、どっちがどっちやら区別つかないのだが、柔道の吉田と、バンダレイ・シルバの1戦なんか見ていると、例えば、柔道というルールが練り上げられて、要は、「技がきれいにかかるか」ということも、結局は、柔道のルールがあるから、「出てくるスキルだ」みたいなものが、われわれにも見えてくるのであって、むろん、なんでもありというのではないが、要は、けんかだみたいなはなしになると、吉田の柔道のスキルも「そこに相手のキックがでてきたり」「なぐりがあったり」「ラグビーのタックルみたいのもゆるされたり」となると、なかなか、目には見えない。

吉田に聞いてみたいのだが、だから、柔道家はおのれの柔道のスキルに誇りをもつといっても、それは柔道の領域のなかで、これを格闘技という領域に広げたら、さーどうなのか?と、むろん柔道家だけでなくて、ムエタイの選手もムエタイの領域のなかで、おのれの身体性を向上させ、スキルを(防御も攻撃も)洗練させ、そこから、それで間に合わない、こともあるK1なりプライドなりに「出てきて」当然「おのれのいわば母体」で勝負にいくのだろうが、それでは「相手を制圧するどころか、」「おいおいそれありかよ」と言っているあいだに「やられてしまう場合も含めて」いってみれば、おのれを「拡張」していかなければならないのだろう。

ボクサーも同じ、ボクサーはボクサーと戦って、戦慄的なすごみを見せつけられるが、体重無視の場に、立って、相手がムエタイだ、プロレスだ、ヒクソン柔術だに、どうやって対応するのかすまわち、どうリアクションするのか?が知りたいのだが、あまりそういうこというやつはいない。

というのも格闘技、守っていてもつまりはリアクションしていても、「だからどうしたという類いのスポーツだろうから」そこを気合で「攻撃」に行くのがあたりまだろう、という多分そういうことが、基本だろう、不思議なことに、サッカーではリアクションサッカーが、あたかも不滅の金字塔のような概念として、信仰されてしまっているのが、わからん。

いや、よくわかるのである。
成功は、リアクションサッカーのほうに傾きやすい、そういうスポーツである。

リアクション・サッカーの信奉者らしい、オシムも、自分のチームが負けると、「勇気を持って攻めなければ、サッカーではゴールを奪えない」と、無意識の信念が吐露されるというように、自分なんか、感じる。

みんな、サッカー少しでも経験したら「守って、守り倒す、サッカー」というが、おもしろくないこともさることながら、やはり攻撃しなければ点はとれない、というあたりまえの、感性はもっているのだが、イタリアがまもり倒せば、やはり、「イタリア教になるし」
レアルが負ければ「さてこそ、守備が」ってな、にわか評論家になって、「リアクションサッカーやっとけば、いいんだ」というつぶやきになるわけだ。

むずかしい理屈でなく,先号にとりあげた、ヨーロッパ選抜対世界選抜の試合、(相撲でいえばしょっきり)あれを、子供たちにやらせておけば、間違いなく、サッカーはやがて野球を駆逐する。

そして、デル・ピエロ、すきな選手だが、「なにかおもしろいこと」「やれ、といわれても、ロナウジーニョよりはるかに、ゆるい」しかし、ストライカーとしては、すごい、というそこらへんの、さー、これをなんというのか、日本語になっていないのだが、「ハーフのお遊び」と「フォワードのお遊び」「ちがってよい」というそこを言語化してちょうだい、ということである。

マンチェスターユナイテッドでプレイしている、ポルトガルのロナウド、こいつはウインガーのお遊びだ。これまた凄い。
FIFAランクなんど、上級コーチにまかせておけばよい。

少年コーチは、さきほどいったまだ言語化されていない、[遊んでよいけれど]「(ハーフらしく遊べ)(フォワードらしく遊べ)」そこさえ押さえてくれれば、フラット知らない、コンパクト知らない、なんでもよいぜ、ってなもんだ。

偉そうなこという評論家、みんな、たたきつぶせ、である。
こいつらは「国を滅ぼす」

このあいだの試合もちろん、さっきいったように「しょっきり」だけれど、それでもお互いにフラットで守っていて、その結果、そのフラットをやぶる側の(ふざけてはいるのだが)努力のしかた、というか、考えも、「やはりね」という意味で、参考になった。

例えば、エトウのラインの破り方(=ラン)とかそう言う意味である。
大雑把に言葉にすれば「ラインの裏に」「ばかのように飛び出せば」「オフサイド」しかし「予備動作」しながら「やはり行く所は、行く」

そうとしかほかにかけないのだが、
では高校生にそれをどうやって「教えますか?」
そこも参考になった。
あの試合はタックル禁止みたいなものだから、そのままは学べない、しかし、フォワードのあしもとに、つけて、むりやり前をむかせないという考え、しかし日本語でいえば、「おとし」のパスを相手の、プレッシングを専科にしているハーフにいかにしたら、とられないようにするか、そこの「くふう」が対フラットプラスバイタルゾーンないでのプレッシングに、有効か、追認したような気がする。

こうやって、コーチング日記書きながらも、自分もサッカー整理されていくというのが、おおげさに言えば、人間のもつ奇跡みたいなもんだと思える。
脳力がすべてだから。

今週は、土曜日に新宿で、日本学園の卒業生、謝恩会、そこを過ぎて春休みモード。
新学期が始まる前いつも選手にいうのだが、(イタリアのコーチの真似だけれど)ひとかたまりになっている、トレーニング期間を、ステージという言い方をする、そしてそのステージでのとりあげるテーマは、かならずステージ前に、言いわたす。

言って見れば春休みステージである。

テーマは、
1)対ラインの中央攻撃
2)乱暴な攻撃しかけてくる相手への守備
3)ボールポゼッションと、攻撃のきりわけ、ポゼッションなら、安全、攻撃ならリスク

この3点「かな」そのテーマだって、すぐに「でてくる」場合もあれば、けっこう醸成しないとでてこないということもある。
いちばんかんたんなのは対外試合をやれば、でてくるわけだが、
このあいだの対北朝鮮は、わたしなりにいえば、ポゼッションはうまくて高校生とはスケールがちがうパス交換になる、しかし攻撃という意味では、よく整理されていないのではないか?才能もないのだが。そんなことであったような気がした。
(この項終り)