サッカーの練習

2005年2月20日(日)

先週は2月17日(木)に、栄光に行って、練習終わった帰り際、福本先生が、「中3インフルエンザで、練習参加できませんので(せっかくきていただいたのに)申し訳ありません」なんて、気「使いすぎ」(正しく言えば、使われすぎ)だが、のコメントいただいて、恐縮である。

OBのひとたち父母のひとたち、知らないだろうが、練習のときには、(すくなくとも、相川さん練習来る日は)福本先生もグラウンドにきて、練習見ておられるのである。

いや、ご苦労な話だなとは思う。

だって、サッカーの練習で、表向きのプログラムのタイトルはたとえば「シュート」だ、なんていうことがあるわけだが、それを普通の人々が見ていたって、おもしろくはなかろうに。

コーチのほうは[シュート]を撃たせているのではなくて「どうしたら、ただしいシュートを覚えさせるか?」しか、頭にないわけだし、それをどうしたら「ひとりひとりの欠点見ぬきながら」選手に、シュートではなくて、シュートのなかのあるテーマをやらせるか、みたいにいわば頭脳作業しているから、どんな練習でも、そう言う意味では、おもしろい。

しかし、コーチ以外のひとには練習別におもしろそうにも思えない、わけで、そういう意味では、子供が(サッカーやっていて)すべった、転んだで「相川さん、なにがおもしろいんですか」って、よく言われるとおり、おもしろいとは思えないのに、グラウンドにきておられる。

率直に頭がさがる。

自分は逆に、桐蔭時代、土曜日とか日曜日のサンデーコーチで、李がコーチングしている練習をサイドから見ていて、飽きることはなかった。

なぜかといえば、李もいろいろ批判も多い奴だが、サッカーを煮詰めて行く、考え方はまちがっていないし、かつ独自的なものがあるので、こいつが、選手になにをいっているのか?なにをやらせたがっているのか?興味はつきなかったわけだから。

その逆に、とくに中学のチームなどで、高校生よりもさらに散漫に練習と称している「なにか」をたちどまって見るというようなことはさすがにない。
世田谷弦巻にいた頃は、すぐそばに、弦巻中学があって、そばを通るのだが、ほとんど2秒、目をやるだけであった。

栄光、練習頻度が少ないにもかかわらず、いまのところは、「ここはゆずれないよ」っていう練習しかやっていない。

栄光的なくふうまでは、まだいかない。
栄光的な「くふう」とはなにか?とは別に、強くなるということは、表向きに伝わってくる「ぼくはこんなことしました」とは別に、いわば機密的な、「くふう」がかならずあるもんだと、思っている。
そこまで、練習をいわば、離陸させられれば、よいのだが、栄光とてもじゃないが、半年前、そうなるはずのない状態であった、と思っている。

おおざっぱにいえばふたつの「不在」を感知できた。

ひとつは、「きわめて、サッカー的なことがら、(それをスキルといってもよいが)」につき、向上せんという、意欲の不在」
もうひとつは、「遊戯である、サッカーをやることに、全身で感じる(から、またからだから発散される、)楽しいな、楽しいな、」という光線の不在

この二つの不在が「あるうちは」選手もチームもどこにも浮上はしない。
サッカーはもともと、そのふたつについて、きわめて、強く「はたらきかける力を」もっているスポーツである。
よそのスポーツと比較することはいらないのだが、
スキルの「習熟」に(放っておいても)選手は、まい進する類いのスポーツであり
ひとたび、最低限でもスキルを得れば、それをもってプレイするのが「楽しくて、楽しくて」しかたがないスポーツである。

そのはずであるのに、「こはいかに」というまず感覚からいけば、練習でも選手が「暗い」
そしてどこか、抑圧は強いが、目的にはまったく、沿っていない、というそういう感じあった。
他人の息子であるから、他人の息子の親が、「うちの息子は、それでよろしい」と言われれば、「そこまでの、話であるのだが」一応「おせっかいに」平たく言えば、「楽しいことやろうぜ」ということ、「楽しいことやるのだから」「表情もあかるくなるはずでしょう」という(そういう言い方は絶対しないが、)結果そうなる練習やら、コーチのトークを選んだ。

そのためには、コーチが、かたの力をぬくしかないので、そういうことは修行の結果、自覚している。
しかし、昔から「兄ちゃんコーチ」という言い方で軽蔑しているのだが「大学生あたりのアルバイトで」「子供にどうやって、サッカー教えたらいいか、グラウンドに立ってわからぬあまり」「そうか、子供たちのお兄ちゃんになって、いっしょに遊んじゃえば、いいんだ」という結論、具現化してしまうやつがいるのだが、そういう方法論はとらない。
なぜなら、そういうやりかただと、先に行って、選手をコントロールできなくなるので。

最初は、「サッカーってやさしいし、そんなまなじりけっしてやるもんじゃない、なぜならそういうようにサッカーにつめていくと、ひたすら力、パワーのサッカーになっていって」
あえて言えば、そのサッカーは「栄光のサッカーの伝統に反する」ということになる。

最初はいわば、ハード(力を出す種類のプレイ)とソフト(やわらかさ、精妙さを出すべきプレイ)のうち、ソフトなほうの導入から「はいる」ことにした、しかし、サッカーは最後は「両方」必要であるから、柴野先生には、「ロングキック蹴れる」ようにしてください、その練習をどうしても、導入しておいてください、またのちには「ジャンプヘッドも」というように、いわば「ソフト」から、そろそろはいっていくが、先の、日々の展開をじかくしているがゆえに、「ハードなプレイのたね」をいわば、しこんでおくといったようなことである。

本来は体力もハードな部分であるのだから「強化」を考えれば、それも「先の日々を見とおして」「しこんでおくべき」類いのことであるが、最初のチームの状態を観察「それは無理だ」と判断した。

なぜって身長などでも、全国平均より低いとか、ある日、野球部の先生と話したら、「栄光のなかでも運動能力のあるこがサッカー部にいって、残りが等々」というお話きいて、絶句してしまったからである」それでも栄光のサッカー部員、走っているとき、頭がゆらゆらゆれて、ランの姿に力感がない、こりゃ「だめだ」なのだが、そこで「どうするか」をやるのに、相川さんきたわけだろう。

そこで、あえて、ボールなしのランニングはたなあげ、そのかわり練習時間いないを、目一杯からだ動かす、ということにした。

例えば、木曜日、正味の練習時間は1時間半で、結論から言えば、けっして、短すぎる、とは思わない、ところが、選手が30名参加して、半面で7対7でゲーム形式やらせれば、残り2チームは「ぼうっとしているわけだ」つまりは、1時間半、強弱あってもよいから、ボール触っています、走っています、という中味にはなっていない。

このことは柴野先生に申し上げた。

本当は、わたしが指摘する前に、そこは「もう解決しています」というのではなければいけないと思える。

そこ「まで」やっても、(つまり3時半から部活を始めて、5時に終れば、それでよいわけだ)学校からは良いという話に、なっているのだと、私は理解している。

しかし、「そういうようには、既存の練習は、なっていない」だから、結果、木曜日、おそらくトータル30分ぐらいしか、からだを動かして「いない」という数年が「あった」のであろう。
それでは、栄光サッカー部は阿呆の集団だと思われても、むべなるかなであろう。
練習は短くてもけっこうである。

しかし30分体を動かして、それで試合をなんとかしたい、ということを思っているとしたら、それは、おかしい。

で、そういうことは「なぜ、改善されていなかったか?」と、考えて、私は、「要は、栄光生、サッカーのおもしろさを、ときおこされていないんじゃないの」という結論に達した。

去年、瀬谷高校とやって、前半うまくいっていたのに、後半あっという間に負けたあと、押本(17期)と、東京にもどる車中で、いろいろ話したことだが、押本は(それだけではないのだが)「栄光、例えばヘッド弱いですよね、がーんとやってください」というような口調であった、(それもよくわかるが)わたしは、口にはしなかったが「別なことを考えていた」

そのべつなことというのは、「だから、いかにしたら、栄光生が、自発で、自学するようになるのか?」と、そういうことである。

自発で、1時間半、いろいろな練習があってもよいが、足を動かし続ける「ところに」きてそれで他校と勝負ということならいいんじゃないでしょうかということである。

そこを最初に強制ありき、というようには、いかない。

たとえ、コーチが100%仮に正しくても、プロでもない、アマに何か「押しつけても」効果というものは、でない、また、たとえ、選手のほうが100%間違っていても、コーチが「これ、やれ」で選手がそれをやるわけでもない。

それが人間なのか?今風の人間なのか?
そこらが議論の対象であろうが、コーチはそういう議論に参加はしない。

そんなことひとつ、栄光サッカー部のなかでは、「あたりまえとして」受けとめられていないようであった。

「(そんなこともできなくて)おまえは、恥ずかしくないのか?」という、コーチの言葉が効力を発揮する「以前のレベル」というのが、「あるのである」(←むろん、栄光のこと)

で、柴野先生にはいつもレポートに書くのだが、「コーチは評論家でないわけだから」仮に、栄光がそうだとして「どうすれば、栄光生が」「マイナスからゼロにくるか」ということを、自分は、感じていたと思う。

まず、サッカーというものは、情熱を傾けられるもの「である」ということをどうしたら、栄光のやつにコーチできるか、時間的に間に合わなくても、そこからやるしかないだろうと、自分は思った。

選手に「スキルを覚える」ということを、主張しなければならぬのだが、まず、「ここを」同意させねばならぬ。
「わかったね」とミーテイングで、語っても「だめなのである」

方法的には別に、初めての経験ではないのだが、「テーマ」を説明し、テーマを求めて行くのが練習である、というところからスタートした。

当然、「どうしても避けて通れぬテーマ」がある一方で、「むずかしすぎるか」ということにもなる。

頭では「わかっているらしい」のだが「からだは動かない」というやつもいれば、「まったく、なにを言われているのか、てんからわからない」というやつもいる。
混在が常態なのだから、それはよくて、コーチは、最初の日についてこれたやつ、と、これないやつをしっかり記憶して、その日は戻って行く。

次ぎの日、だいたいは同じテーマを選んでまた練習させると、「昨日、めだった」やつ以外に、「ああ、こいつもついてこれているんじゃない」という別なやつがでてくる。
栄光はそのいわば「芽のでかたが遅い」のだが、例えば

実際の練習で、普通は、相川さんがひとりの「めだつ選手を」ひきあげて「きみはうまい」とおだてると「ほかの選手も、嫉妬を覚えるはずで」そこをすかさず「じゃーおまえが、うまくないのは、結局はテーマから離れているからじゃねーの」ともっていくと、たいていは「あがってくる」のだが、栄光生はどうなのか?そこが「実は今もわからない」というわけだ。

練習は成果が少しであっても出ているのだが、その成果が「試合でもOK」ということなのかどうか、そこが不明と言うのがいたい。

サッカーの基本はボールを扱う、スキルへの、こだわりであろうと自分など思う。
かんたんなものだ。

しかし、誰もいないところで、スキルを見せつけても、無意味なのだから、結局は、試合のなかで、「ここでは、自分は、なにをするのか、してはいけないのか」つまり判断である、その判断が常に先行して、スキルの選択がある。

そのことを教えないと、選手はスキルが意味することが、わからなくて終る。
あるいは練習のためのスキル修得という奇妙なことが起きる。

ついこのあいだまで栄光で、例えば、相手が「よせてきて」そこでどうやってボールをとめるか、みたいな奇妙な練習をしていたりするのを、目撃したりした。

試合の判断ではおおむねそこはダイレクト(スキル)を使う、だからその練習は無意味であろう。
とくに高校生はそれでかまわないと経験的に思う。

そうやって、判断を先行させて、そこから先望むべきは、選手が自学で「スキル」の本質を修得していけばよい、ということになる。

サッカーはまた逆とりゲームである。

だから、はやく、そこへ行きたいわけである。まだまだ時間が足りない。
(この項終り)