「全日本監督:ジーコ」論

2005年2月14日(月)
日刊現代「なんか」新聞扱いする人も少ないが、一応[講談社]の夕刊紙だし、「情報」をどう、考えるかぐらいは、わかっているつもりで、そのどんな問題にも左翼的アプローチというか、はちゃめちゃな発想を楽しんで読む。

その現代に、(日付けは2月11日版)、「ジーコ監督では日本代表はドイツW杯に出場できない」というキャプションでさらに、「格下の北朝鮮にラッキーな辛勝で改めて暴露された無策采配」ともある。

そういえば、昨日は、TBSで、よせばよいのに、中西あたりのいわば小僧評論家までが、まわりの関口あたりに「中西さん、完勝、楽勝って(試合前に)言ったじゃないですか、それがどうして、あの苦戦ですかって?」つっこまれて「やや、感情むきだしに」(中西、多少こちらに縁がある人物だから、おいおい、「それはまずいぞ、そういう生ま硬い、素みたいなふるまい、テレビで出すと、みんな鼻白むぞ」と、しごとなくすぞと)「その日の調子が悪ければ、苦戦するんです」(なんて、およそどつぼにはまる発言くりかえしたあとに、さらに、でも関口にしたら、あたりまえに、でもね、ずっと準備しているんですから、その日の調子が悪いからといってね、とある意味当たり前の、突っ込みうけて)「ですから、苦戦の原因は、ジーコの采配が悪いんですよ」と言い放ってしまった。

中西、テレビのなかの自分は虚像、ということへの自覚のなさ。

そこへ行くと、なんという番組か、知らないが、4チャンで、舞の海がこう言う発言していた「いや、みんな希望としては、政治とスポーツはちがうんだと言いいますが、あの対北朝鮮の試合など見ていると、それはちがいますよね」と、この程度のことさえ、言えない、中西「あたり」の知性で、ジーコの采配が悪い、と言い放つ(しどろもどろになっている、中西の言いいたいことは、どうやら)前の2試合の練習試合のメンバーを対北朝鮮戦にも、そのままひっぱって使った、ということらしいのだが、珍論の類いである。

じゃーなんでいわゆる国内組みで、練習試合やったの?と、だれからだってつっこまれるじゃん。
ついでに、その舞の海が出ている番組、誰もサッカー関係者いない。
どうした日テレ?
武田だすのいやになったのか?
(いや自分も聞きたくないけれどね)
江川かなんかに「いや、北朝鮮強いですよ」なんて言わせておいてよいのかしら?

現代にもどれば、まー言論は自由だから、ここまでは売らんかなのおおげさな煽動で、それはそれで「いかにもらしいから」自分なんか「そらでた」でよいのだが、ジーコは傷つくらしい。

いや日刊現代の記事目にとめるかどうかではなくて、その他のメデイアの、批判に対してである。

そのあと、もうひとつキャプションがあって、「組織的なサッカーもできず、ゲームの流れも読めない監督はいますぐ代えるべきではないか」とあった。
ここにはわたしは「??????」である。
こういう中味がただしいかどうかの???ではなく、今回のコーチング日記の主音調は、「もう、ジーコへの、メデイアの批判が出だしたの?」ということである。
だって日本人なんか、率先して、批判とか悪口言わない、言えない民族で、まずは、となりのやつが「俺はジーコだめだ」みたいなこと小声で言って、それ聞いて、「これが空気だな」と思って、自分も悪口言い出すわけだから、中西「だって」そこらへんは、耳にしてのあの発言だろう。

中枢には、いない相川さんなんか 別に空気を読んで、どうこう書いたりしているわけではなくて、だめなものは、だめ、良いものは、良いと自分の業態から判断しているだけである。

で、記事を読む、飛ばし読みだが。

まず試合後のジーコのコメント「試合を見た人には楽しんでもらい、興奮してもらったと思う。このことに喜びを感じている」と言ったそうだが、それを[寝言もいいところ、ノー天気]だとまず切った。

(日本人は「緊張が好きな民族だ」ぞんなことジーコが言うわけもないが沈痛な表情で「すいません、でしたみなさまに心配をおかけして」とでも「言わない」となっとくしないというわけである。)

記事では、さらに、事前のテストマッチに勝って浮かれ(えっつ、浮かれていたの?)
「北朝鮮はたいしたことがない」「国内組みだけで十分」と自信たっぷりだったジーコ監督、とある、もしそれが本当なら、本人がだいじょうぶだといっていたわけだ。

わけのわからない、おばかな評論家とかマスメデイアでなくて監督自身がそういっていたのだろうか?
へーだよね。
(結論だけ言っておくと、「そうだとしたら」ジーコは、現代の言うように「危ない」)

まず「日本人」をよくわかっていない。
「朝鮮と日本の歴史」「朝鮮の人達の怨嗟」というようなものもわかっていない、いやわからなくてもよいから知識としてはもってもらいたい。

中略

その記事のなかに、スポーツライターの加部究なるやつがでてくる

「ジーコは指揮官として不適格。やっているサッカーはおそろしく前近代的です。FWとDFの距離が50メーターも開き、これでは満足にプレスもかけられない。司令官とFWふたりが攻撃し、残りのフイールドプレイヤー7人が守るというスタイルでは好守の連係がちぐはくになってしまい、近代サッカーに逆行しています。中学サッカーのレベルでも今はコンパクトな組織的なサッカーをやっています」
だって。

このときばかりは、相川さんも、きむ・じょんいるの#2でもなって、こういう似非サッカー評論家を、敬愛すべき首領さまに許可もらって、機関銃で撃ってやる許可でももらいたいと思ったものである。

さらに続けて「ジーコには試合の流れを読む力がない。先制後、日本は同点にされてもおかしくない状況が続いた。リードしているとはいえ、積極的な選手交代でゲームの流れを引き寄せておけば、あんなに苦戦することはなかった。ここ10年、日本はプロリーグが運営され、2度のW杯本大会出場を含めて多くの国際体験を積んだ。それなのに鎖国状態だった北朝鮮と同レベルのサッカーだった。日本が勝てたのは相手の素人同然のキーパーに助けられただけです。ジーコに任せておけば日本代表は危機的な状況に陥る」

これはもうほとんど魔女狩りヒステリー、の世界のことのようだ。

まずこの加部さんとかいうひとが「なにをもって、近代サッカーといっているのか?」わかるような気もする。
彼は反論するかも知らないが、要は、トルシェ「も」やろうとしていた、ようなサッカーで、その他、ヨーロッパでも程度の差はあれ、流通しているサッカーのやりかただろう。
あとで、解説するが、一言で言えば「リアクションサッカー」のコンセプトにはいる。
それを、ブラジル人、ジーコにもとめるのか?
といった類いのこと以前にも指摘はした。
トルシェが高い金とって、日本代表に「なにを教えたか?」山本昌邦の本読むと、コーチならリアクションサッカーの約束ごと、だけであったということが、よーく理解できる。

それはよいが、いつのまにか、選手やコーチではなくて、評論家がサッカーってこうあるべきだと、言い出すよのなかになってしまった。

だが、ここではジーコサッカーのなぞときをするために、加部さんの論評からは、少しはなれて、2月10日のサンケイ15版の16ページにのっている、清雲さんの「清雲栄純氏分析」なる一文の所感からスタートである。

まず、面倒くさいが全文紹介:

日本の悪い癖が出た。ボールを持っていない選手のサポート、反応が悪かった。攻守にわたりリズムを失わせた原因だろう。

後半16分に同点を許した場面。右サイドから4人にパスつながれて左サイドからシュートを打たれた。ボールに行く選手とそれをカバーする選手との距離が離れすぎたため、守備が後手後手に回ってしまい、人数がいるのに対応しきれなかった。ピンチを迎えたときの連携の不十分さを露呈した。

本来、日本は勢いを大事にするチームだが、早い時間に1点を取ったことで逆に精神的に勢いを失った。先制したことで、油断が生まれたのか。そうしたマイナス要因が選手の心理を揺さぶり、約束事もまもれなくなったといえる。攻撃面でそれが顕著だったが、守備でも前線からのチェック、中盤のアプローチの速さ、最終ラインのカバリングと、チーム、グループとしての約束事を再認識し、プレーに生かさないといけない。

今後対戦する相手にも楽には勝てないだろう。ましてや、北朝鮮とのアウエイ戦では、自信を膨らませた北朝鮮を上回る精神と戦術で戦わなければならない。アジアでのトップレベルを維持し、ドイツワールドカップに駒を進めるためにも、今回の苦い経験を教訓にすべきである。(J1大宮トータルアドバイザー、法政大学教授)

わたし、これを読んで、ほとんどくらくらした。

読者諸兄はどうですか?

どこが悪いんですか?正論ではないんですか?と思うかもしれません。
例により言論は自由です。
だから清雲氏がなにを言うのも、自由。

しかし、この文章の中で、清雲はジーコの持っているブラジル人固有のサッカー観などというものは「はなから無視」しているというそういう感じをもった。
さきの現代での、加部はすくなくとも今、日本代表を預かっているのは、ジーコだということを前提にはしている。
しかし、清雲はジーコが指揮しているということを故意に無視したかのような、書き方をしている。

清雲はなにか情報を握って自信たっぷりに、これを書いたのか?

いや、選手のあいだでジーコの評判が悪いということは別な所でも聞きました。
わたしなんかの耳にはいるのだから、清雲とっくに、ジーコを前提にしていないのかもしれない。

だから上の文章の中で言われているのは、監督の「采配」だとか「選手起用」だとか、作戦だとかではなくて、あくまで選手が、選手が、という言い方をしている。

つまり、考え過ぎではなくて、相川さんの言うように、ジーコはブラジル人の(偉大な、世界的な)元選手というだけで、あってコーチではなくて、かつリアクションサッカーなんか、まったく、興味もなくて、そういう前提をまず認めて、そのうえでジーコのサッカー見ようぜ、なんていう(暖かいアプローチなど)とっくの昔に、業界人は「否定してしまって」その先に、噴きあがっているかのようないんしょうをもったわけだ。

ここで、むずかしい話ではまったくないが、アクションサッカーとリアクションサッカーの違いを言っておかないといけないのだろう。

リアクションサッカーというのは、自分の理解では、「相手があって、あいてがこうこう、攻撃してくるだろう」「それを、つぶすには」「こちらがどう守るかを策定することがサッカーである」というそういういわばやりかたである。

アクションサッカーというのは、同じく、「自分たちがどう攻撃するか」極端いえば、そればかり考えて、サッカーをやるやりかたである。

前の、日記で、ジーコが試合前に言ったことを紹介して「相手がどうだこうだではなくて、いつもじぶんたちがしかけるのが(全日本のサッカーだ=自分の考えるサッカーだ)というような、(だって通訳鈴木が訳したポル語だから)相川もどこまで正確なのか、むろんわからんが、これは要は、自分はアクション・サッカーだよ、リアクションサッカーはしないよ」というように翻訳するわけだ。

アクションサッカー「と」リアクションサッカーは、なかなか融合しないと自分などは、考える。

そうだと、自分などは思うのだが、[リアクションサッカーを選手に強いて]自由奔放な「攻撃」もめざすといったような、私に言わせれば、そいつはできっこないということを「やらせよう」というよくわからん指導者もいる。

むろん、アクションサッカーも同じで、徹底的に、攻撃のサッカーをするからには、守備にまわったときに、どう相手の攻撃を封じるか、はっきり言えば、あまり緻密さは求められない、だからアクションサッカーをさせて、リアクションサッカーの良い所を求め「すぎるのも」やはりおかしいのではないかと思う。

読者はアクション・サッカーの経験、ほとんどないでしょう。

日本人にはリアクションサッカーこそがサッカーで国民気質にも、あっていて、という歴史が厳然とあって、それは良いのだが、リアクションサッカーが、サッカーのすべてだと思いこんでいるひとたちが大多数の社会でもある。

相手が「どうくるかは、関係ない、自分たちがボールをもてば、自分たちの好きなやりかたで、攻撃する、それが意味することは、じぶんたちのまあいをとり続けることになる。
それを裏うちするのはむろん「技術」である。

わかりやすい例えでは、例えば、代表クラスのフォワードならば、身長だって2メーターぐらいなければ、それが世界標準だとバレーボールならそうなる。

しかし、こちらは身長165センチのトップを先頭に立てる。
世界標準くそくらえだ、なぜならその165センチ男は、「はやいので」ゴールまえでさえ、自分が「足をふるだけの、時間=「まあい」を実現させることができるからだ。

190センチのバックがからだにまかせてのコンタクトに無縁に165センチ男なら撃てる「はず」だという考えを追求する(ブラジルは事実そうしている)。

そのためには、相手が、ボールを奪おうと、ねらっているポイントに、ボールを送ってしまえば190センチの相手は「よしきたとばかりに、そこに身体性の優位をもって、コンタクトにくるに決まっているのだから、それをしたら相手の思うとおりのパスをするということになって、それをパスとは言わない

それをしたら、バカにされる環境というものもある。

パスと言うのは、その味方である165センチ男が「一閃、足をふれるように」出す、
その165センチ男が「あしをふったら」相手の190センチにしてみたら、「まさか」というところに、パスもくるわけで、逆をとられた、ということになる。

つまり逆とりの名人であるということが、パスを出すほう、受けるほうどちらも尊重される、そういうサッカーが、サッカーであるという環境もこの地球にはいっぱいあるわけだ。

ジーコはそのアクションサッカーが国是である社会のDNA保持者で、間違ってもトルシェの路線追随など、まったく眼中にはない。

だからアクションサッカーの脈絡のなかで、今の代表サッカーを解剖すべきだというのが、わたしの考えだが、清雲は、あたかも、そこをもうとっくにあきらめて、選手には、リアクションサッカーを原典にした考えを、「やりなさい」と言っているようにしか、自分には読めなかった。

だからくらくらしたのである。

もう、チームは、選手の「本性」にまかされて運営されているのか?
それでイランとも、バーレンともやるのか?

ジーコはただの、マスメデイア向けの、スポークスマンなのか?
前回のワールドカップで、チームを観察していて、トルシェが選手に「たなあげされて」選手が、自分たちの自発でやりだしたことも、ちゃんと、推測したつもりである、 外野から見ていて、それが決定的に「見えたのは」ロシア戦からで、あわれな、トルシェは、チュニジアだったけ?そのあとの記者会見で、そのことをつっこまれて、自分の尊大なエゴを否定され、て、傷ついた、トルシェは、トルコ戦、投げやりに「やった」ということを、言ったら、あとで、その推測、ほとんど、山本の本でいわば確認されて、「われながら、洞察力正しかったんだ」と思ったわけだが、今回は、まだジーコうまくやっているのか?程度に自分は思っている。

ただジーコはむろんアクション派だが、しかし、トルシェ以前にもズデンコだったけ、ズデニック、忘れたが、彼が、もたらした?よくわからないが、リアクションサッカーの現物は、いろいろなレベルで、追求されているから、単独のチームで、その効率を、選手は経験していて、それを代表チームにもちこんでいるというようなことはあろう。

良い例が、ガンバの、宮本で、確か少し前までは、ジーコのチームでは「どこでボールを取るのか、わからん」というような発言をしていた。

この外見、生真面目そうで、ということは柔軟性の少なさそうな選手などは、トルシェあたりにすぐ「感化されるタイプで」まーそういう意味では、人間くさいやつでよいのだがこの先の5試合、宮本が、守備者として「どうしよう、どうしよう」と混乱してしまうと、、結局勝てない。

つまりコーチならわかるが、宮本が「その瞬間、瞬間の」守備のやりかたを、判断するために[目の前のいわゆるバイタルゾーンで、同僚のとくに、ハーフが]「どう宮本の考える守備のやりかたを実践してくれるか」「実践してくれないと、宮本は」「うまくいかない」ことを、組織のせいにするだろう。

そのとき、「なにもいわない」ジーコを奇禍として、宮本がいわばリアクションサッカーの基本をフォワードやらハーフに「コマンドだしてしまえば」そのやりかたは、先ほどのべたようにすでに熟知しているわけだから、いわば、守り倒す、というサッカーになって、テヘランで、分ける、ということが実現するかもしれない。

当然フォワードは、高原と鈴木だろう。
その脈絡のなかでは。
そして見ても「つまらん」サッカーをやるという、ことになる。
それでよろしいということになる。
これは皮肉でもなんでもなくて、北朝鮮戦で、結局なにが露呈したかといえば、ジーコがどう自分がやりたいサッカーができているのかどうかを洞察しているのかわからないが?
日本代表には、均衡する試合を決定的に、覆す、個人の力をもった、選手は「いない」のだ、ということになる。
他方、イランには、そういう選手がいそう、だからイランは「そういう選手を前面に押したてて、やってくるだろう」なんか名前からして、おそろしくサッカー的なイメージの「ダエイ」(年だけどね)だとかマカダビキアだとか、なんだらこうだら、という感じで。

だから、そこで、はなばなしく撃ち合い「やるのか」地味に、リアクションを基本にカウンターやるのか?
さー、ジーコはどう判断するのだろうか?
いや、結論はわかっている。
トルシェのようにエキセントリックではないが、ジーコも大いなるエゴのひとだろうから、多分、我をとおすだろう。
たまだ、おおぐろ、先発で、しゅんすけ、だしたりして行くことさえあろうか?

アクションサッカーをやらせて、守るときはリアクションサッカーだとそれはできない相談ではないが、実際はなかなかむずかしい、わたしにいわせれば、最大の問題は、二つあって

1) 攻撃サッカーでポジションチェンジをさせたときに、その方法は無限にあってよいわけだが、ボールを奪われて効率的な守備をしようとなって、守備での厳密な作業の指定(=リアクションサッカーとは煮詰めればそういうものだが)の設計がややむずかしくなる。

別な言い方をすれば、守備のときの効率だけで、選手をならべておいたほうが、あたりまえだが、守備の機構がうまく働く、高校の指導者なんかこういうことを言ったりする「相手にボールをやったほうが、得点はしやすい」マイボールであるということは、攻撃をするわけだ、攻撃を、うまくするためにだっていろいろな考えはある、トップに、とられるのを承知で長いボールをだして、そのトップだけが、ドリブルしてシュート、という攻撃もあれば、ストッパーが最後は、相手ゴール前で、シュートするほどに、全員があがって、なにかをするのも攻撃である、で、そこで、結論いえば、シュートがはいるのは、センスがないと、なかなかうまくいかない、
「から」そういうセンスをもったタレントを血眼になって求めるのが、サッカーといえるのだが、ほとんどのチームは絶対的なフォワードぬきに、戦うので、コーチからしたら試合前から、ゴール前までは行けるように、訓練するが、「最後のゴールは」才能だのみだから、逆に、才能やはりない「から」点がはいらないとしても、しかたがねーな、とは思う、
で、それが煎じ詰められると、どうせ攻撃では点がはいらないのだから、相手の守備にプレイさせて、それを(高いところで)かっぱらおう、という究極のアイデアに行きつく、
そのくらいならまだわかるが、自分がプレイしていたら相手が守備だから、はやく、相手にボールをくれてやって、そのうえで、こちらが守備しちゃう、みたいな、やや倒錯的発想、けっこうまじめに、議論されるわけだ。

2) 守備のための、連係の細かな約束ごと、「だけ」をグラウンドで、思い出しながら「やるのも大変だが」ましてや、攻撃のときにも、攻撃のために、頭つかって、で、今度は守備のときにもこまかな点を考えてやらなければならない、これが凡児にはなかなかむずかしい。

加部がいう中学生「でも」というのも、それはあるのかもしれないのだが、中学生で、自分の得意はラインの統率だなどと言ってのける、とんちんかんやろう「が」でてきてしまう、ことを加部はどう考えるのだろうか?

いかにもサラリーマン的サッカーであって、そう言う意味では、日本人にぴったし「くる」というので、いまだにトルシェの隠れフアンというやつがいるのだろう。
楽天の野球キャンプみたいなものだろうね。

選手は、宿舎から自転車でグラウンドへ行くんだって。
リムジンではなくてね。
北朝鮮の今回の中国での合宿、日本への飛来、噂によれば在日総連が資金的援助したらしい、それでも、北京から、成田、エコノミーできたって。

自分にも、遠い昔に、小学校で、べんとうもってこれない級友がいた。
それでもそいつは「明るかった」
だからその種のはなしに今でも、健気であった、そいつらのことを思って、なみだする。

食のことなんか、どうでもよいのだ、という精神、いまだにもっている。
なにを食おうが、生き延びればよいのだぐらいの気持ち、そして、勝つということ。

だから北朝鮮が、あの政治体制でなければ、逆境に負けないよ、そんなの、人として、あたりまえという、ふるまい、にいつも感じ入ってしまう
(この項終り)