イルハン・楽天に登場

2004年2月14日(土)


経済って、なにか?昔はよくわからなかった。
例えば週刊誌あたりが、昔の厚生省が、管轄する国民年金を運用するために、グリーンピアなんていう保養施設を、まずその年金の基金から拠出したのか、それとも運用益から、拠出したのか、多分割高な、建設費で、つくってしまう(小田原にあるんだよね)、それから、またけっこうな給与で、官僚がその運営にあたり、あげくのはてに、破産させてしまって、これまた法外に格安な値段で民間に払い下げてしまう、ことが書かれてある。

その、ひとつひとつが「なぜ許されてきて、かつどうしていけないことなのか?」そこがわからなかったわけである。

それで、勉強し始めて、そのこたえは「人類全体の、経済行動による、富みというか価値の創出=収穫」と「その収穫ごとの分配」ということが、鍵であると、いうことで、腹におちる、つまりそこまで言われないと、わからない、子供であった。

ついでに、グリーンピアのことなど、どうでもよいが、官僚もある、施設をつくることに、投資(といっても、税金)しまた運営をしたのだが、まわらなくなって、手放した、と、いうことである「投資」したときは確かに「投資できる」収穫の分配がてもとにあった、だからいけないというなら、その時点での見とおしの、ところで、チェックということであったろう、むろん結果責任も追求されるのだが、結果責任を追及できるしくみ、があるのかい?そういうシステムを組み上げるというのが、政治家の仕事ではないのかと、フツーにビジネスやってる、ひとたちは思うはずである。

かれらは、ゆるくて、費消してしまった。

なにを費消したかといえば、その時点で人類が確保できた、収穫のほんの一部をである、しかも建設に費消した、収穫は、まわりまわって、土建屋とかゼネコンにとっての、収穫であったろうから、そのまわりかたのすべてが、悪とはいえない、ただ地球の資源は確かなところ有限であろうからには、できれば、その瞬間の費消が人間の、安全とか、安心につながったほうがよかった、というだけのことではないだろうか?

長々と、サッカーとは無縁なことをかいたのは、楽天という企業(数年後には利益で1千億円をめざす)が、神戸を買い入れて、イルハンと契約したということを考えて見たいからである。

イングランドでは、チェルシーをロシアの石油系企業の若い経営者が、同じく経営にタッチしてすでに、高名な選手を続々傘下にかかえて、今は、レアルだ、マンチェスターらが、とっているマーケットでの、ポジションを虎視眈々とねらっている、それとまったく同じである。イルハンに数億の金をつかおうが、その投資自体は、おそらくイルハン効果でのクラブ収益の想定されるアップでちゃんと、おつりがくるわけだろうから、「払いすぎ」もなにもない。

楽天にはそれだけの、力があり、新聞を読んでいたら、そこの社長が「人生は有限だから、したいことをするしかない」というような、コメントをだしたという。
人生には限りがある「ので」、好きなことをやりに、人生の旅をはじめた、コーチもいるわけだが、その、コーチの考えるサッカーとはまた別に、金をだせば、そこで実現するサッカーも「またある」ということだろう。

なにを悠長なこと言っているんだ?と叱られそうだが、

高校チームの、コーチなんて「才能の芽生えを感じられる」ごくごく少数の選手を、気長に育てて、という行動パターンと、思考法だが、トップリーグは、そうではなく、今回の神戸のような、パターンに行く(のが、正しいかどうか?)そこがいろいろと考えたい部分である。

(強力な)選手を集めて、だけでは、戦争に勝てないという直感はまずある。かといって、コーチが「負けたら、いやー選手に才能がないから」「責任は、編成にある」みたいな言い方をして、それでこの職業いいのだろうか?という思いもある。

強力な選手は一言でいえば、プライドもまた高い、そう言う選手がもつ、高いレベルのゲームを勝ちにいくための、選手の側の思考、アイデアをどう正しくコントロールしながら、チームを成功にもっていくか?思えば、高校サッカーなどとはまず次元が違うわけである。

ここの部分をやりのこしたという思いはあるが、それはまた今回でいえば、楽天の社長のような、思考法をもつ経営者が、いなければ、コーチも育つまい。間違えてはいけないのは、楽天の社長、個人的に知らないが、チームを育てるために「長い目でみてもらえる」なんてことを言っているのではない。その逆であろう。多分、コーチのところも、「ころころ人事が、かわって」最後には、「勝たせるかわりに、コーチにも億の金」という時代がくることだろう。

そういう時代がくるはずだが、そう言う時代で生き残る、ための勉強法はなにか?

わたしにはその、勉強法は、サッカーのテキストのなかにあるのではなく、企業の経営者が、もっている知恵のなかにあるのではないかと、思っている。
サッカーそのものは、高校生のサッカーとプロのサッカー本質的には、差異はない。

とくに「蹴りたくて、蹴りたくてしかたがない」高校生を、「そうではなく、まず、ボールスキルを向上させて、ひとりひとりが、」「ボールを奪われない」しかし、そのことだけが、前に出ていくのではなく、「チームとして、つないで、つないで、そしてゴールしていく」ために、「ひとりひとりは」どういうランをしていくのかを追及している、コーチのつくるチームがやる、サッカーは、未成熟ではあるが、「ボールゲーム、ボールはどうしたら、キープできるか?ボールはどうしたら失いやすいか?」という視点で綾なされるのだが、大人がやる、世界のどこでもやられている、サッカーと違うはずがない。

あとは、残るのは、ラグビーの大西先生が、「接近うんだらかんだら」という理論の修正で「ボールの奪取」をのちに付け加えたわけだが、私に言わせれば、フラットとか高い所でのプレス、というのは、この大西先生のボールの奪取の範疇に属することであって、未熟な高校生の部分では、「ボールのロスト、即、失点」という現象もあろうが、ボールの奪取そのものはサッカーの一部であって、それがあたかもすべてであるかのように、指導する、呆け指導者は有害である。

風が吹きそうだが、きょうは、横浜へいって桐蔭と試合をやってくる。
(この項終り)