非凡な選手

2005年1月30日(日)

今回も、また北朝鮮問題からはいるわけだが、というのは、北朝鮮政府から横田めぐみさんのものだという遺骨は偽者であるという日本の、主張それに対して「まったくでっちあげ」だという公式な返答がきて、さすがに日本政府も、「そうは言わないが」これはこのさき対話と圧力の、圧力のほうに、行くしかないみたいな、でも、どうするという、ことをにおわせだした。

2月09日は試合はあるでしょう。

というのは、日曜日千葉へ行く前に、サンデープロジェクト見ていたら、町村外務大臣は「今、政府は、なにしているかといえば」「北朝鮮からの、反論にどうやって反証するかいま専門家に検討してもらっていますから」と言っていた。

慶応大学の草野教授、あたりが目をむいて「何で今ごろ、反論なんですか?」とついでながらいきまいていたが、せんせいの、言いたい事は、(外務省は)証拠を検証しているプロセスのなかで、それを他者から難じられないよう、手続きをつみかさねてないの??ということであろうが、これを聞いたと気のわたしの印象は、なんでもかんでも、学者というのはきーきー声で、いちゃもんつける(のが、なりあいで、いやな奴だねというもの)、別にいくら証拠をつみあげても、国と国のあいだで、は「どんなことだって、ありであったり、なしであったり」裁定する神はいない。

北朝鮮のほうは、そういうことあたりまえのことだとスタートはわかっているじゃないですか。
神をも恐れぬ、とよくいうけれど、むこうはそういうことでしょう。
人対人なら、共同体のなかの強制力とか、文明国家なら警察とか司法とか、そういうものが機能する。
しかしならずもの国家と定義された国を相手にするときに、日本に決定的にかけているものはむろん軍事力ないしはそれを行使できない憲法ということにどうなったてなる。

そこを見て見ぬふりをする。

まーどっちにしても、外務省、そういった作業やっているから、また時間かかって、あるいはわざとかけて??、9日に試合が中止になるというようなことはなかろう。

で、政治とスポーツは違うって、戦争にいって自ら、人を撃った、捕虜の虐待を(戦友がやった)と、そういう経験をしている、大西先生が言うならともかく、そこらのチンピラ新聞記者に言われたくないというかどうして言わないのだろうかと思うほどに、対北朝鮮との2試合は実は、いろいろなことを可能性としてはらむことではなかろうか?

試合放棄が究極であろう。
拉致ということが事実になって、同胞がぴょんやんでいわば虜囚生活をしている、そんな相手と試合は「できない」というひとがいてもよかった。
そうでなければ、敵地スタデイアムへ行って、例の水色のリボンを腕に巻けでもいい。

信仰というものは、そういうものであろう。

だって重慶で、日本はやられたわけでしょう。
中国人のその態度は識者がいろいろなことを言ったわけだが要は、中国人はスポーツの世界に政治をもちこんだわけだ。
日本人は文明度が高いから、ブーイングを聞こえないふりをした、君が代が聞こえないことを、そうでないと思いこもうとした。
そこまでは、よいとして、つまりひとつの態度であるから、試合はやろうぜ、これはサッカーだから、過去の日本あるいは日本軍の行為に対して反日本教育をうけて、その感情をサッカーチームにむけた中国人を「がまんあるいはしかと」というスタンスでのぞんだことは賞賛されるかもしれないけれど、現に進行中の国家犯罪の相手に、「そんなことはないんだよね」とないと思いこみたい態度でのぞむというのは少しちがうだろう。

南アフリカはマンデラがでてくる前には、当然アパルトヘイト国家で、いろいろな国家ラグビー代表は公然と、対戦を拒否してきたわけだ。
そういう議論さえ巻き起こせないほどに、日本の平和ぼけ社会のメデイアは多分現場の記者が、もうとんちんかんのきわみなのであろうね。

まーそういう政治的な妄言はかぎりないけれど、土曜日にカザフスタンと代表は練習試合で、ご承知のように4-0、まー「相手は、どうやってこんなチームでサッカーやるのというくらい、お粗末」で心配性の自分などは、こりゃまずいぜ、もっと苦戦したほうが「メンタルもひきしまるし」問題も「出てくる」からいいのにね、などと思っていた。

しゅんすけ、や、おの、あるいはなかだがチームにいれば、もうすこし言って見れば、かれらの「味」ともいえるようなものがパスの連続の「どこかで」でてきたりする、いってみれば「けれん」というようなことだろう。

ところがこの日のハーフの構成だと、ひたすらワンタッチ、ツータッチで「はやい」だけで、じつにすっきりはしている、それともうひとつは、ひたすら、ラインの前で、ボールを追いまくる、連中で、そう言うことは多分、しゅんすけは「俺は守備のために生きているんじゃない」とかそう言う理由で、満点10なら5とかいうことになるのではないか。

だからジーコも当然そういうことはわかっているはずなのだが、実はそこがわかっているの?という心配があるわけである。
ジーコ自身がコーチとして理由はともかく「けれん味ある選手がいてこそ」代表チームである、より守備力のあるチームでは「このハーフでは通じない、やはり彼我の戦力のバランスを、変えてしまう、選手がほしい」と思っているのではないか?
だから09日の前に、もどってくる欧州組みとかいわれる、やつらに信を置くだろう、多分に。

この日のことは良くあることで、誰だって、相手のプレ スがなければ「パスは、早い」あるいはまたこういうこともいえる。

フォワードのゴール前のスピードが「確かにあるならば」ハーフがさきほどのけれん味をだして、なんとか逆パスだして、という「より」ひたすら、フォワードにまっさきに「つけてしまえば」あとはフォワードが、たったったとステップ踏んで、足ふると、もうボールはゴールのなかにあった、というそういうゲームになってしまう。

「たまだ」がそのはやいフォワードというわけだ。

他に良い点があるのかもしれないし、この日のプレイだけで酷評してはいけないのだが、「どうして、鈴木は足ふれないの?」という設問がある、と自分なんか考える。

1-0のときの、たまだ、おがさわらが左へ走るたまだにパスをして、たまだが、また足ふってかれの2点目のときのことを、おがさわらが「あれはもう1度自分にもどしてもらって、自分がシュートするつもりだ」といったが、おいおいそれは「おがさわらのアイデアが違うんじゃないの?」と思った、鹿島には「はやいフォワードがいないのか
しら」そういえば風の子エウレルが鹿島にいたころ、エウレルの不平と言うのが、「鹿島のハーフというのは、ボールをつないでばかりで、自分を活かそうとしない」というようなことを言っていた。

むろん急いで言っておくと、たまだをとめるバックなど世界には、腐るほどいるであろう、そうなると、そこでユニットで攻撃みたいなアイデアが確かに出てくるが、どちらにせよ基本は「スピード」だ。

で、たかはらがもどってきたら、たまだはナンバー3か?そこらへんもむずかしい問題になるということではないか?
むろん他のハーフの構成もだ。

で、埼玉は結果はだれもわからないが試合はやれるでしょう。

そのころから北朝鮮と日本のあいだの政情すこし見えない部分がでてきて、さー@ぴょんやんの第2試合どうなるのか?なにしろ独裁国家だから、鬼がでてくるかも?

そんなことなどどうでもよくて、日曜日は千葉に行った。
相手は千葉経済付属高校、千葉でベスト4だというので、良い試合ができるか、楽しいね、と、本当に思うのである。
だって選手もそうだが、スポーツをやっているものの楽しみとは「良い相手とし合うことにあるわけだから」
京葉、穴川インターで降りて、広大な千葉大のキャンパスそばのグラウンドに向かった。

相手はなんでもかんでもオフサイドをかけるフラット4、相手のトップは自分たちがフラット採用してオフサイドをやろうとしている「からか」こちらのストッパーを背にしてひたすら、ゴールと逆方向に走る「だけ」だからおせっかいながら、こういう間違いを生むわけだよ、だれが責任者かしらないけれどね。
フォワードというのは、どうしたって、前に行く事が本筋でしょう。
ただ高校生ラインズマン、相手のホーム、なんでもかんでも旗あげてしまうそこで、それに対する対策をこちらのフォワードに授ける場合だって、とても神経質にします。
「おまえの飛び出しかたでいいのだけれど」という枕詞必ずつけます。

前半だけで4点ははいっているというぐらいライン崩しあったけれど、1-1なので、後半はこちらのひとりのフォワードに「さがって足元」の動きを許して3-2で圧倒できた、ただし、むこうは当然フォアチェックを組みにしてきて、こちらがそのプレスはずしをやるということであったが、やはり日本代表のほうが、うまいと思う、グラウンドの半面をすばやくパス交換すると、されると、やはりあいては、つかれるしね。

おいおい代表と高校生くらべたらいけないでしょう、と?そんなことはない。
コーチとしていつもいうのは、サッカーはプロはアマの目標である。
プロと同じことをしてよろしい、同じことをやるべきなのである。
だから攻撃は、高校生のほうが「うまい」と思うくらいだ。

前半椿事があった。
こちらが攻めて、相手が例によってラインをあげて「はいオフサイド」という場面で、はたは確かにあがったが、主審は認めなかったということらしい、ボールを足でたまたま(フリーキックと思いこんで)とめた相手が、さーどこに出そうか、周りをながめていたら、こちらのあがりめが事態をよく呑みこんでいて、ス―ッとよってそのボールかっぱらって、そのまま独走、ゴールははずしたが、いやー感心した。
だってそのとき、こいつは「だまって、よっていった」わけで、やはり非凡でないものをもっていると思った。
それが凡才だと「おい、笛なってないからフリーキックじゃない」なんてこといいかねない、このごろの子はとくにそうだ。

そんなプレイ今まで見たことない。
(この項終り)