攻撃サッカー

2003年1月20日(月)

貴乃花が引退した。

基本的に、相撲をスポーツとは思わない,自分ではある。
確かに鍛錬という意味では、格闘技のなかで一番強いのが相撲の力士かという見方もある、だがまた同時に、いかにも日本的な、流れやら、空気を読む「業界」で、そのしきたりのなかで、「ああだこうだ」とやっているわけだから、がちんこ、の高校サッカー「からすれば」参考にならないわけだ。

ただ、良いも悪いも、貴乃花が生きてきたような物語は、日本人の琴線にいちばん触れる、ここのところが昔も,今も「わからなければならぬ」「ところだろう」それは、選手も指導者もである。

日曜日19日に、駒沢で、FC杉並と、FC横浜が練習試合をした。

結果は、交通事故みたいな、失点があって、0―1ではあったが、80分間、いかなる意味でも圧倒的な、攻撃サッカーで、まったく心配ない試合内容ではあったが、相手のコーチがでかい声で、言っていることに興味があった。

いわく、ラインをそろえろ、(杉並は)2ボランチ「だから」「おまえらもそろえろ」等々、まったく守備のことだけであった。

貧乏しているクラブであろうが、こういう指導者がまがりなりにも、Jのクラブのユース・コーチをしているわけだ。
本当に「これでよいのだろうか?」
また「仮に、これではだめだ」としたらそれを「誰が指摘し、導くのか?」
なんとなくわかっているのは、人為的には「手段はないのだろうな」ということである。

芸の世界のひとつで、落語の世界がある。
昔から、落語が好きで、最初はわからないまま、ラジオなどで聞いていて、ただ笑っていただけだが、長じてその芸というのはなんだ?とかその伝承ということがいったいどうしてなされるのか?というようなことに興味をもつようになった。

するとここでも良いか悪いか別に、今ここでは談志という存在に触れなければならない。
というのは、この人は、自分からすれば不思議な人で、むろん毀誉褒貶の多い人だから、悪く言う人は「どうして、そこまで言うのか」というコメントに代表されるのだが、問題をつきつめて、さらに、それを口にいうというようなところが嫌われる、らしい。
が、とにかく芸を出す、だけではなく、芸とは何かについて発言するからである。

自分が小学生のころ慣れ親しんだ、落語家はみんな、ただその芸を伝える「だけで」インサイドストーリーというものは伝わらなかった、わけである。
サッカーでいえば「ゲーム」を、客の前に、放り出して、さー「見てくれ」ということになる。

落語の場合は、今、古典を聞いても、相川「うなるだけである」それぞれの芸風はあって、志ん生も良いが、だれそれも凄いという程度なのだが、その核にある伝承されている「何か」はいかにして、受け継がれているのか?そこが関心のあるところである。

談志はむろん、今の若い落語家「歯牙にもかけない」ということを理由つきで公言しているわけで、つまり落語をただ客の前に放り出しているのでなく、いわばインサイドストーリーを露出させているわけだ。

FC横浜のコーチに個人的な関心はない「から」どうでもよいといえばどうでもよく、自分は、今のサッカーを選手に教え続けるだけだが、市場にまかせておけば、例えば、このFC横浜は、崩壊していくのだろうか?そこがよくわからない、ところである。

さて、サッカー的なことを話せば、今、FC杉並は苦境下にいる。

理由は、かねてから言っている、「こいつはひょっとして」というハーフが剥離骨折で休場中、ということもある、しかしこれは、やがては解決することだから良いとして、最大の問題は、トップに人を得ない、ということにつきる。

いくらゲームをやって、内容は良いのだが、守備サッカーに勝てない、というのは、フォワードに責任を押し付けるつもりはないものの、要は、フォワードである、サッカーというスポーツがそういうスポーツだからである。

Verdyが2部落ちの危機を解決したのも結局はエジムンドであった、エジムンドが去って、今度はエムボマを呼んで来た。エムボマが「やれるか、どうか」今はわからない。カメルーンで,日本に来たときも、エムボマより、エト―のほうが「はっとさせる」印象であったが、エムボマ、負傷もしていたということもあったようである。

エムボマがセリエではもはや通じない「から」とかそういうことはどうでもよいことである。ただ高校のチームなどと違って、プロのチームだから選手がどこまで忠誠心をもてるか?それが鍵であろう。
だから不思議でもなんでもないのだが、マンチェスターでもレアルでも。監督の首がころころ変わるわけではない。勝ち続けているから変わらない「のか?」監督がチームに忠誠心をもてる「から」選手が忠誠心を持てることができて、一定の力を出せるのか?そこが簡単ではない所である。

それで疑問のまま投げだしておくのでなければ、結局クラブの経営者に問われるのは「人物を見抜く眼力」というしかないだろう。
安直なコーチに3年もあたえるわけにはいくまい(3年は実際には、2年で見なおしがはいる、だから2年は1年だ)、しかしこれという人物ならば、3年を保証するしかほかに道はないだろう。
(この項終わり)