選手は育ったグランドに戻る?

2005年1月11日(火)

どこのチームにコーチに行っても、その日の練習の進め方、その他の雑感(例えば、選手の個人評価)などは、栄光の場合でも、レポート起こして、関係者に配布する。
自分自身の備忘録としても機能する

『相川ちゃんと仕事やっているの?』という批判がきたときには、「これを見てくれ」ということであるが、むろんいくらレポートあげたって、「負けたり、オウナーから嫌われれば、去って行くしかない商売だが」アメリカ企業に勤めたことあるので、そういう点は、おのれの習慣になった。
それだけのはなしではある。

1月10日、成人の日、月曜なれど、日学は1100から練習して、この11日の火曜日をオフにした。
10日にはそうか明日オフか?
テクノキッズのほうの仕事やるんか?と思っていたら、案の定、練習のあと車に戻ったら、携帯に受信ありとあって、シェリーさんに電話したら、明日11日、1000に三田、というアポになった。

で、11日朝、パソコン開いたら、栄光は練習があるという連絡はいっていたので、三田でランチのあと赤阪もどりで、大船に向かう。

平日の、栄光の練習3時半からが多いが、その時間に間に合うように、遅くても2時半あたりに、東京を出ると、首都高速3号線、用賀に向かう道行でも、第3京浜でも、戸塚バイパスでも、いつも強烈な逆光をフロントガラスに受けて、走る。

だからか、ともすれば、光の輪の中に、車は、やや現実に身を置いている、感じ不足して、
走る。
栄光に「もどって?」また半年が過ぎてしまった。

早稲田の1年生のとき、なんか栄光で練習していたか試合していたか忘れたが、、ジャンプヘッドして落ちてきたら、右手首の2本とも、ぐにゃっと折れて、大学の試験放棄、そこらあたりから、勉強のべの字も、なくて、混迷彷徨して、あっというまに、40年である。

ただ、自分たちにとって、栄光というのは湘南田浦なのだが、この鎌倉のロケーションも悪くはない、どうしてかといえば「変わらない」からである。
きょうは、時間がなくて、首都高速を用賀で降りずに、そのまま東名にはいった、川崎を過ぎたくらいから、前方に、大山・丹沢の山なみが見えて、私事にわたるから、言わないが、その山なみを朝に夕にみあげて生きていた日々があって、当然フラッシュバックがくる。

今の栄光のグラウンドも、フラワーガーデンのほう、がけが切り立ち落ちる、方に視線むければ、そうかあの日、骨折った日も、そこにあった、やまなみのそのむこうのほうで、それから以降の日々送ったときもあったかと思う。
で、要は、いなかだから、変化がないのである。

そのほうがよいと思える。
なんだかんだ言っても、選手は「育ったところに戻ってくる」という話、みなさん知っている?
選手のサッカー生活、充実させてやりたいというのが、また栄光にもどってきた原点なのだが、そういう自分の思いを、けっこう助けてくれるような舞台として、栄光グラウンドのロケーションやら、環境、悪くないのである。

例えば、早稲田でて、今風にいえばフリーターみたいな存在で、神奈川の協会の手伝いみたいなことしながら、横浜山手の丘にあった、セントジョセフの、サッカークラブのコーチやっていたときがあった。

テヘランに行く前のことである。

そこのグラウンドは狭くて、それこそ栄光の3分の2ほどのスペースであったが、わたしは今でも、そこに思い入れをもっている。

というのは、電車で、横浜から山手まできて、元町ストリートを歩きながら、フェリスの横の階段を上って、みなとが見える高さにまできて、降りかえれば、横浜港の海を見れば、このさきいったいどうなるのかという青春の感傷があったころで、また、当時でいえば、セントジョセフがもっていた、異国のにおいというか、香りもまた、なにか、モダンで「コーチってかっこういいな」と自画自賛できるような、映画のなかの1シーンのような、そんな風景であったからである。

ところが、今や、セントジョセフも潰れてしまった。

だから、そのグラウンドにも、戻っていけない。
もしセントジョセフのグラウンドがあれば、わたしは、いつかそこに戻っていってグラウンド横にあるベンチに座って、異国の子供たちがサッカーをやるのを見て、多分こう思うだろう、「時間はどうやって過ぎたのだろうかって?」

じゃあ栄光は?
だからもう少し、学校の信頼を得たら、大島先生(旧姓、14期赤澤氏である)に頼んで、ベンチをグラウンド横に置いてもらおうかと思っている。
なぜって、OBでも父母でも、誰でもよいが、スタンド式ベンチに座って始めて、越し方を思いながら、グラウンドにいるということの意味を感じるのだから。

コーチでなくても、サッカーのそばにいる「人生」のスタイルというのがあって、実際にイタリアの田舎町あたりで、相川さん考察してきたものである。

それはビテルボといってローマから百数十キロ北上、歴史の町だが小さい。
郊外にある、とあるグラウンド、芝生一面だが、れんがでつくった、ホーム、ビジター別のドレッシングルーム、シャワーちゃんとそろっていて、なおかつ、スタンドが同じくれんがでひとつのサイドだけ平行して、横長の倉庫のようなつくりの建物があって、そこの上にななめに木造のスタンドが置いてある。

そのスタンドに座って、名も知らぬ、かなたのやまなみをまた見る。

目の前では、セリエのA、Bのその下、C1の地元チームの練習やっている、1週間つきあった。

といってもただ見ているだけ、でも、ひとつ感じたのは、そうかデスクの前でテレビ見ながら座る、ということと、同じということ、サッカーのグラウンドにいて、ものを考える、感じる、やはりスタンドが必要ということ、

そういう楽しみもこの世にある。
そういえば、これも今はなくなったが、早稲田グランド坂と言うのは今もあるが、昔はそこに早稲田大学野球部の練習グラウンド、安部球場があって、山口瞳もそういえば、無為の時間をスタンドで座って、早稲田野球の練習をぼうっと見ていたというようなこと読んだ記憶がある。

相川いったい、何を見るの?という声あがりそうだが。
練習を見るわけだ。
練習のなかで、苦労している高校生やら中学生を見るわけである。
そうではなくて怪物のような選手を見るということもあろうが、栄光の場合はそれは考えにくい。
練習というものは、身体的に苦しかったり、頭脳的にうまく身体のふるまいを、まとめられない、いらつきがあったりいろいろだが、どちらにせよ、コーチは、あるべき「到達点」がわかっていて、「そこに選手がいきつかなければ」納得しない。
で、わたしなどは、よその学校の練習見ていても「ある選手が」「こいつもともと、コーチの説明わかっていないね」「技術のメカニズム、把握していないね」「こいつ、ちゃんとテーマ、わかっているね」みんな、わかる。
自分のチームならば当然『声だして』「ちがうぞ」という話しになるのだが、まー「よそのチームのことだから、どうでもいいや」と思う、ただ、大天才をつkれといっても、そうはいかないが、段階ふめば、かならずだれでもボール止まります、ボールけれます、そういうところへ、連れていけるだけの自信があるのが、コーチであって、そう言う意味では、「なんでこいつ、こんなことができないのかね」と本とに思う。

そんなことを考えながら、ベンチにすわっている時間も悪くはない。

1530から栄光でトレーニング。
1700に終って、井本先生と技術論やりとり。
すこし日没が伸びてきたかな、そういうことも肉体労働者はけっこう感じる。

途中横浜で高速降りて、西口で夕食とった。