良い解説者像

2005年1月10日(月)

ある人から、質問があって:

相川さんへ、XXです。 一つ質問があります。 相川さんは、サッカー
の解説者が解説が出来ていないとお嘆きですが、きちんと説明している解説者は誰ですかお教え下さい。 その方の解説と素人のそれとを聞き比べてみたいと思っています。

と、あった。

このご質問に答えるのだって「やれ、木村和司は」「やたらに」「まず」「うーん」というだけとか、みたいに「誰でも、感じている」欠点?というか「聞きくるしさ」みたいな、いわば罰点ひとつ、ふたつ、好感もてる点、ひとつふたつ、みたいな展開をもって、話してしまえば、相川さんのほうがいかに、ただの不平分子というだけで、世の中への問題提起にもなっていないことをさらけだすだけだろう。

だから誰が良い解説者かの答えではなく、「これがいけない」ということに、時間をさいて、考えた。

では、なにがいけないのか?

それはかんたん。

アナウンサーが「いけない」

アナウンサーというのがどうやって、ある会社にはいっていくのか?
勉強エリートでないと入社できないのだろうか?
だったら彼の学生時代、彼の日常のなかでスポーツというのはどこかに位置を占めていたのだろうか?
仮になにもないとして、彼はどうやってスポーツを表現できるのだろうか?

次ぎには、会社にはいって、どうやって、その(放送やら、新聞の)メデイア企業の「内規」というか「コード」を基に社内教育をうけて、「つまらんことばかり」はなすようになるのか?そこらが最初の原因だろう。

というのは、アナウンサーはどうやって彼の、放送の流れをくみたてていくのか、そこにプロデユーサーとかデイレクターとかのいわば、指示とかしばりとかがあるのだろうか、解説者に「あまりしゃべられるとまずい」とか「こういう内容を話されたらまずいとか」
そういうものがあるのだろうか?
そこがわからない、
それでも、要はアナウンサーと解説者の、言葉のやりとりが「やはり、鮮烈なところに」行く事が望ましいのではないだろうか?
そのためには、グラウンドの上で、なにが起きているのか?
小さなことも、大きなことも、全部「見えなければ」そこで起きている物語を語れないというのは、いうまでもない。

そうではなくて、とにかくそのスポーツを知らない、グラウンドの上でなにが起きているのか、観察できない、やたらに観念的な「感動もりあげ」たい光線で、話を「解説者」にふる。
そして、解説者とのあいだの、「言葉のキャッチボール」を「しない」「できない」

例えば、日テレの「おしゃれかんけい」の古館(アナウンサーといってよいのか?)この番組のしきりは「うまい」
出演者のことを、良く見ている、そして、意表をつくコメント質問を出演者にぶつける。

それにたいして、解説者ではないが「相手が」当然「うまく」対応する、で、その言葉と言葉のやりとりが、きいているこちらからして「おもしろい」「つまらない」ということになろうか。

しかしテレ朝の例の久米のあとをひきついだ報道番組のほうは、たまに見るが、「こいつなんもわかっていないんだよね」とわたしなども思う(だからといって久米が良いとも思わないけどね)なにがイラク戦争における問題か?なにがアメリカの問題か?わからないから、言葉に『力』がない。

おしゃれかんけいをもりあげる、話のもっていきかたは、わかっているが、報道番組のほうは、だめだ、という「ところ」が真実であろうか。

同じように、なんで「こいつが」サッカーのアナウンサーするの?という、そこがまずわからないやつが多すぎる。
話していて、力がない。

何を話して、どうやってアナウンサーとして、興奮していくのか、そこがわかっていない。

それで「くだらんことを」 解説者に、もちかける。

「夢がありますね」とか「いろんなもの、背負っていますね」とかなんでもない攻撃でも「超一流ではないですか」ってなたぐいである。

それに対して、
解説者のほうが「根性物語」やら「苦労話」「お涙ちょうだい式」をもとにした、「返し」を、もし「しなかったら」アナウンサー、蒼ざめてしまうのではないか?だってどう今度はアナウンサーが返してよいかわからないのだから。

あるスポーツで、解説はどういうことをはなせばよいのか?

わかっているようで、わかりもしないのだから、結局は個性にまかされるようなものだろう。

NHKの相撲の解説では、元横綱、北の富士の解説がきわだっているとおもえるのだが、それだとて、素人の自分には、「彼が話してくれることが」どこまで「現実のことなのか?」わからない、ただひとつだけわかるのは、NHKのアナウンサーが「しろうと」として「どうしてあそこは、こういうような立会いしなかったんでしょうね」などというと「たしなめぎみに」「いや、それはできないんでしょね、なぜなら相手が、こうこうこうやって、組み手をくふうしましたからね」と実に明快にいう。
そしてそうやって「言うとことに」力がある。
つまりは相撲が好きなのだろう。

この相撲の解説が「良いものかどうかわからない」サッカーも同じようなものになるべきかもわからない、わかっているのは、アナウンサーも相撲を表現する以上は、相撲をとことん、知らなければ、できないのだろう、ということそれだけだ。

それなら、サッカーだって同じではないか?
レベルの低いサッカーだと、最初からもりあがることもないのだから、それでもだまっているわけにはいかない、商売、ご苦労さんではある。しかし試合以外のエピソードなどいくら紹介したって、とにか盛りがあらないものは盛りあがらない。

それで、アナウンサーのほうが、何を、聞くか、わかってきたとして、でそれから、やっと、無能というかつまらんことをかえしで、いう解説者の「追放」 開始だろう。

話し変わって、高校選手権は鹿実、PKで優勝。
テレビで見ていたが、まー高校生「だから」よくわかるといえば、わかるサッカーのやりかたではある。
批評はなにもなし。
勝てばよろし。

1月04日から凡児の類いのチームも、練習再開、次第に、かたちをなしつつある。
霜解けの世田谷、農大の大学グラウンドで農大1高と試合。
今年からは勝とうということにしたので、2-1。
年々歳々、花は、実は同じ。
(この項終り)