最後はフォワード

2003年1月02日(木)

1月01日(水)

天皇杯決勝は、半分だけテレビで見た、「朝生」のせいで、眠たくなった、から、後半は知らなかった。

試合前、10冠を目指す、鹿島、といういわばマスコミがつけた、キャッチ・フレーズで、鹿島に罪は、ないのだが、それに「かちんと」きた。
その10冠を言いたてることが「いけない」というように感じたのではなく、10冠、どころではない、よそのチームの「焦燥」というものに思いをはせたからである。

イタリアのセリエAでも、優勝争いに常時加わるのは、セブン・シスターズとかいわれている、ユベントスやら、ミランという、おなじみのチームなようだ、ということは、クラブにしても「おのれの、ポジションを考えて」「行動する」ということだろう、選手も多分そうだろう、コーチもそうだろう、セブンの内のチームなら、優勝をめざして、投資も莫大、そうでなければ、限られた予算のなかで、では「どうすれば」存在価値があるのか?レッジーナの場合で言えば、Aに、とどまるということである、ゲームをしながら、セブンのほうからオーダーがかかる、選手を育成して、いわば売って、予算を確保して行く(という、チーム運営のやりかたを、日本人はどう考えるのか?)それでいて、負ければ、監督の首は飛ぶわけだが。

高校のチームであっても、今年の国見に3連覇というようなキャッチ・フレーズが言いたてられて、それはそれで凄いことだが、基本的には、選手の入れ替え、準備期間の短さ、などという要素を考えれば、高校チームの「不安定性」は宿命である、ほとんど1回戦で負けかけた「帝京」のことを、笑うわけにはいかない。そういうものであろう。

マスコミは総体優勝の帝京が「なぜ苦戦をするのか?」というように「もっていきたがる」
我が、ミニコミには、むろん、そういう視点は、まったくない。
初芝がラインコントロールをもう少し大胆に(とくに、相手フリーキックに)すれば、流れのなかで、崩した初芝のほうが勝ったゲームであったろう。

それにしても、和歌山初芝の4番目のPKキッカーの助走は「なんか、おかしかったね」

だから、高校のチームを考える時、夢としては常に、「連戦連勝」ではあるが、それはそれで置いて、Jのことを言えば、トップクラブの管理職、グラウンドスタッフであったら、より「連戦連勝」へのモメンタム(勢い、駆動力)とでもいうものが、高校のコーチにくらべて「はげしいもの」であるはずではないだろうか?

選手はおそらくいつも外環境にぶつぶつ言いながら「も」試合には燃えるだろう。

さて、鹿島は結局、京都に逆転をくらって、1―2で負けた。
京都紫光がサンガの前身だが、今は京セラの稲盛さんのチームだろう。

パク・チソンのヘッド(対秋田?)偉い。
くろべ、ここでいれるか、ここで撃つかというシュートも偉い。
鹿島1-0のエウレルの、つめ、も偉い、
みんな、みんな、高校生、中学生のお手本である。

だから、サッカーは「最後はフォワードである」
そのフォワードに、徒弟奉公で、1年目は一千万円、2年目は、1年目5ゴールをいれたから、一千五百万円に仮に、年俸を設定する「から」サッカーがおもしろくなくなるのだろう。

フォワードは、一ゴールが、多分3千万円から5千万円か?
そういうことにしなければ、つまり昔から言われる、フォワード百万ドル、ハーフ八十万ドル、バック五十万ドルという、サッカー業界の格言が「ある」ことの意味を考えなければ、やはり、パク・チソンに去られる、わけだ。

くりかえしだが、サッカーは、3点目までを、いかに入れるかを競うスポーツである。

1-0にしたり、0-1を1-1にしたり、するということが「このうえなく」貴重なことである、という、そういうスポーツである。

京都が3-4-3であったことも興味深かった。

明日から、業務再開である。
かつ、新人戦東京都大会は一回戦が國學院久我山である。
いろいろ、わけを知っているひとたちは「おもしろいね」というだろう。
ゲーム内容ではなく、人と人の綾なす、恩讐模様と言う意味である。
(この項終わり)