2002年7月1日(月) ブラジル対ドイツ 決勝

韓国対トルコ(ほとんど見られず)
ドイツ対ブラジル

グラウンドで目に見える「こと」をつぶさに見る、そして想像力を働かす、しかし、想像力も荒唐無稽なそれではなく、経験を土台にしたものである。
そしてキーボードをたたく。

どこの産業でも、企業は、社員にやはり「書く」ことを求める、『書くことによって、アイデアやら経緯は整理される』からだ。

コーチはどうなのか?

他の産業で飯を食ってきた相川、そこで学んだスキルはこの先も生かしたい、コーチ大いに書くべしである。

くだらん評論家やら、選手あがりが、ミーハー向けに書く文章ではなく、コーチがもっとレポートを書くべきである、全日本の山本がトルゥシェに、抱きついた瞬間にトルゥシェがそれを振り払ったように見えたがあの瞬間の山本の感じたことを報告すべきである。
それを読みたいものである。

他人に見せることが必須なのではなく、書いて、このサッカーという「広いスポーツ=ありとあらゆることを、おりこんでいかなければいけないペルシャじゅうたんのようなスポーツ」で、コーチとして、そのチームで「達成」したこと「達成できていないこと」それを整理できなければ、チームを練り上げる、時間が「あまりにも少ない」ということだ。

相川にとってもこのワールドカップのゲーム(を、じぶんなりの方法で、書きとどめておくこと)はおおいに、役に立つものであった。

他人が『自分の言うことを』どう思うかを、あてこまなければいけない、プロの評論家とか、なぜかサッカーになだれこんできた小説家なんてのもサッカーについて、いろいろ書いたが、売れ行きを気にしなければいけないので、表現にみがきをかける結果、言葉としては優れたものになるが、現場で、「行動する、コーチにとって」「武器になる言葉を、求めること自体が無理である」。
選手に「優雅に」攻撃しろ、といって勝てるわけではない。

どこまでがコーチの言葉か(選手が実行する、ことを容易にし、選手もその言葉をもちいて、戦術を語れる)
どこからが、感動は呼ぶかもしれないし、美しい(が、グラウンドのうえでは無駄な)『書く人』の言葉なのか?

3位決定戦になって、ゲーム後、韓国、トルコ一体になっての交流をうらやましく思った。

日刊現代を読んでいたら、「トルコの内紛」とあって、(内紛はセンセーショナルだろうが)、こうあった、ハカンシキュルなどが、いわば国内派であり、つまりトルコで生まれ、育ち、今はイタリアのパルマで働いていると、それに対して、交代ででてくるイルグンというのか(ちょんまげの選手)あるいはパシュトルクもそうだろう、父母の世代が移民でドイツに渡り、そこで生まれて、そこでサッカーを学んだ、故国のことなど知らない、そういう連中と、新聞が言うように、そのあいだに乖離があるか、いなか?それはどうでもよいことだ。

ただそういうことがわかった、わかってで、なぜ、ハカンシキュルにこだわるかの、理由もなるほどとは思った、ハカンシキュルは国内派の英雄である、ゆえに先発はずせない、しかし、ハカンシキュル、不調といえども「相手がその選手を放っては置けない」という選手である。
コーチとしては、そう言う認識が大事だろう。

ラモスが6月27日の夜にフジテレビで冷静なことをいっていたがそのとおりである。
つまりブラジル、守備の強さは、個人の強さで、組織のそれではないと。
守備の選手が「攻撃にあがりすぎで、その留守をどうするか、あまり知恵はみられない」

その観察は「よし」だが何度も言うように(ラモスでなくても)本当のことをマスコミ・テレビ・ラジオが求めているわけではないことは明確である。

相川が見ても、ラモスが見ても、誰が見てもブラジル(の守備は)、「そうとしか見えない」のだが、口に出すときは『ブラジルは強い、すごい』といわなければいけないわけだろう。
つまらない話しである。

もうひとつ自分が書き忘れたかもしれないのだが、韓国対ドイツではドイツが1―2度オフサイドトラップを韓国に試みたが、韓国はオフサイドで「とめること」を意識していたか?

ブラジルもトルコも同じに、ここぞというときに、オフサイドでとめようなどとはしていなかった。

人から聞いたことだが、イタリアのサッキにしても、フラットを用いたものの、「オフサイドトラップで、相手を止めるのではなく、それを相手に意識させて(どうせ単純に飛び出してもオフサイドになる「から」と相手が思えば、それだけでフラットは成功する。
特に、前線が「走り出す、早さ」を牽制できる)というように」考えていた、というのである。

だから、自分も攻撃では「ラインくずし」の際に、オフサイドへ飛び出すことを奨励している、ただそこにパスをつけたら、だめだという、そうしないと、ますます「フォワード」が走らなくなる

そういうことを、(トルゥシェなどどうでもよいから、)日本人のコーチはどう考えるかと言うことが大事ではないか、それでも6月22日に高校生に練習ゲームをやらせたが、相手はオフサイドオンリーの、フラット4であった。

フラットが唯一ではない唯一のソリューション(解決ではない)それだけのことだが、トルゥシェは「去っても、フラットが残る」かくて高校サッカー滅亡する、である、それではならじだが。高校サッカーが滅亡すれば、代表サッカーも滅びるのである。

さて、ドイツ対ブラジルのコーチ的な興味は、ドイツがブラジルの攻撃をいかに押さえるかにつきる。

もうひとつ少し今までと異なる視点だが、ここにお互いの予想3バックの身体条件を書いた。

ブラジル
キーパー マルコス        193センチ、86キログラム
     ロッキージュニオール  186センチ、73キログラム
     エジミゥソン      185センチ、73キログラム
     ルシオ         188センチ、81キログラム
ドイツ
キーパー カーン         188センチ、88キログラム
     リンケ         183センチ、79キログラム 
     ケール         186センチ、80キログラム
     メッツエルダー     193センチ、84キログラム

サッカー、むろんバスケットでもバレーボールでもない、身長ではなく、ボールセンスである、とはいえ、今の傾向をこのリストは端的に物語る。

日本人で(背の高い選手)といくたびか、めぐりあってきたし、これからも恵まれるだろうが、ボールと身体とのリズムがあわない選手がほとんどである。だからそんな昔ではないが、180センチのストッパーをもつこともけっこうたいへんであった。
ところが、このリストを見てみれば、今では、さらに5センチプラスの185を選択の際にあたまのなかにいれておけということになるのか。

今、先発メンバーを見ていたら、ドイツ、3―5―2である。
ブラジル相手は異なるが、イングランド、4―4―2、トルコ4―4―2、とクリヤーはしてきた。
システムをクリヤーしてきた、わけではなく、個々の相手の選手と、カバーの約束をクリヤーしてきたわけだが、結局、その2国は、ラインは、維持したものの、リバウド(が、とくにひいたとき、そのリバウドの、プレイを牽制するのに、はあまり神経質ではなかった、とくにトルコのように)、そういう意味でブラジルの、中盤プレイをいかに押さえるか、くふうというより、選手まかせであったとしか思えない。

果たしてドイツはいわゆる名前と名前をずっとつきあわせるマントーマンではないが、やむをえぬ場合をのぞいては、相手についていく、方法を選んだ、したがい、タッチにひらく場合がそのやむをえないい場面だが、ドイツのラインから真後ろにはなれていく動きをブラジルがやっても、そこに「ついていく」ことをドイツがやったものだから、リバウドもフリーになれない、そのかわり、なんでそこまであがってくるのか、というブラジルのボランチの「あがり」には、ドイツ「つきが」遅れることになる。

つまりここでいいたいことは、リバウドがドイツのラインからはなれてさがるように、ブラジル側に逃げる(で、ボールをあしもとに受けていたのが、過去のゲームであった)

ドイツはそのリバウドに神経質についていくが、かといって、ついていくドイツの守備の「裏」を無警戒というのではむろんない、リバウドにストッパーがいくか、ボランチがいくかどちらにせよ、ドイツボランチの位置が、リバウド、ロナウジーニョが「危険になったら、対応できる」ようにしてあるわけだから、必然的に、ブラジルのボランチへの、対応は遅れていく傾向になるという、ゲーム上の理屈だろう。

それでも、もっとも危険な男であるリバウドにゲームのなかにはいらせない、ということはできていた。

他方、ドイツは、ロングを選んでサイドから攻撃し、クロスまでは出す。この点はしっかり、やっていて、とくにあわてた、ブラジルは地上戦を選択したいのに蹴ってしまう場面が多くドイツを攻撃で制圧している、ということではない、のが前半であった。

ドイツは、かならずしも、ボールのコントロールにもっとも攻撃的なあるいはラテン的な感覚である、身体のうちにいれてしまうボールコントロールをやっているような感じはなかった。
古典的であるし、ぬいていくドリブルでもボールをつきだしては、ブラジルの裏をつくといった体力まかせの考えで、あれを日本人がやりきれる、とは思えない。(ここは議論のあるところだろう)

だから相川持論のショートを意図的につくってプレスをより、ひきよせるということではなく、等間隔のパスが多い、したがいよほどにブラジルが自らの、陣形のなせる結果スペースが(ドイツにとって)見えない限りはなかなか決定的な「ラインくずし」ができない。
ここらへんは、日本と同じ。

ブラジルでは、ドリブルしながらの場合はともかく、ロナウジーニョがパスをだすときに、たいへんいていねいなグラウンダ-を「だそうという」慎重さを見せるようなところが高校生にとって参考になるだろう。

後半

ゴール前でハマンがボールをとられ、そこでもそうだが「おいファウルだろうが」というアピールがひとつ余計で、リバウドシュート、強烈であったが、カーンの正面に飛んで、(そこが機微だと思えるが)、リバウドのシュートが正面でなく、わく、ぎりぎりであったなら、カーンはどうしたろうか、今大会の『傾向なのか?』カーンの癖なのか、不明だが、カーン、もっぱらパンチとかフイスト、とかで処理していたのだが、このときは正面にきて、ひやっとはするが、「かかえにいって、胸にはねかえった」とう奇妙なミスで0―1。

そのときドイツのストッパーもいて、こぼれに反応すべきではあったが、しなかった。
「カーンだからそんなミスはしないだろう、まさか」という感覚をもつのも当然「なのか?」

ビアホフをいれて、クローゼを出した、ここまではわかる。
だがアサモアをジェレミスに変えて、ラインとボランチ、ウイングハーフの、構成をかえて、守備のカバーの約束が狂ったところで、2点目がはいった。
最後にリバウドがスルーをしたとき、ロナウドをマークしていたのは攻撃のためにいれたはずのアサモアである。

3バックはむろん横にも移動して最終のゾーンをカバーする(がどこからどこまでをカバーするかを考え抜かなければ、70メーターを3人でカバーしきれない)、エマージェンシー以外は、3バックの「横」をカバーするのはウイングハーフだが、基本的には、ウイングハーフは相手のウイングハーフと戦争していればよいシステムなのに、アサモアが、トップである、ロナウドを止めにいかなければいけない、というのは何かが狂ったというわけだ。

ドイツ

      ●2、リンケ    ●5、ラメロー  ●21、メッツエルダー

            ●8ハマン   ●16、ジェレミス
●22、フリンクス        ●19、シュナイダー        ●17、ボーデ

           ●7、ノビル     ●11、クローゼ

これで2002年ワールドカップは終わった。

ドイツもむろん一流のサッカーである、ただドイツサッカーを語るよりも、ベスト16で、ブラジルに勝てるチャンスをもっていたのは、私はトルコであったと言うことにこだわりたい。
なぜならトルコ、もドイツも、リバウドの左足の恐さは『知っていた』し、ロべカルの左足の恐さも知っていた、だから、おさえにかかって、トルコはほぼゲームプランを達成した。
ましてや、トルコはこいつらの誇りも相当なものだね、と思わせるのだが、リバウドに、とくにマークをつける、とかいう方法ではない、戦いを選択した。

ただロナウドの「ロマーリオスタイルのシュートは」トルコ知らなかったろう、つまりブラジルが、今大会で出したかぎりのことは、トルコよく押さえた。
が、ドイツは方法を工夫はしたものの、押さえられなかった。

カーンの負傷やら、ミスの場面をいうのではなく、その以前から決定的な場面をブラジルにつくられていたことをどう考えるか?

つまり、未熟なもの同士なら、ドイツ的な守備採用でかまわないが、そうすると、自分たちのサッカー「できにくい」ということになる、という問題がでてくる。

ラインや、ゾーンという考え方も最後はマンマークにいくしかないわけだが、永遠の鉄則で、最初からマークをしていれば、守備はだいたい間に合うが、最初からマークしていれば、スペースカバーが遅れる、スペースを中心に守備を行えば、それがラインや、ゾーンということになっていくわけだが、どうしてもマークは「遅れる」のがあたりまえである。

その遅れが致命的なものにならなければ、それでもかまわないわけだが、致命的かどうか選手が判断できることとか、相手の攻撃のだいたいの、傾向(とその変化)をコーチが観察できないと、間違うことになる。