2002年6月04日(火)日本対ベルギー

散々議論してきたように、日本が「この日」にワールドカップ敗戦をしなかったことはよかった。引き分けは上々である。
誰もがそう言うし、思う。
めでたしめでたし。
あえて蛇足をいえば、
だが、このゲームとんでもないゲームであった。
まるで決勝戦のような削りあい、蹴りあい、と言う意味で。

「こういうようにいかないと」勝てないのかねと、何度も思った、でそのあとの韓国対ポーランド戦の、韓国の「こういうようにやるために外国人コーチを呼んだのではなかったのか、というあたりまえのサッカー」を見ていて、皮肉なものだと感じた。

おそらくは日本のゲームを見て、かつ韓国のゲームの解説に臨んだ、風間も内心は『叫びたい』ものがあったのではないか?
その点水沼のように「きょうはみんなが闘っていてよかった」と素人のようなことを上気して言っている阿呆を見ると、恥ずかしくなる。

「闘った」ことはそのとおりだ。
なぜか?
「闘いやすい、パスといおうか、縦へのただの蹴りにしかどう同情的に見ても見えないゲームを選択した」「から」みんながそれに呼応できたというわけだ。

パスまわし(というのはジャーナリズムの用語で、コーチの言葉ではないが面倒くさいのでそのまま使う)のチームになることを願って準備をしてきたが、いろいろな理由(素質、誤解、体力不足、戦術の欠如)でどうもうまくいかない、大切なお正月の大会の地方予選1回戦で、こわいOBがやってきて「おまえらもたもたすんじゃねー、四の五のいわずに、目をつぶって蹴れ、あたれ」というサッカーを強制されたら、(不思議でもなんでもないが)勢いだけは「でて」それまでどことなく元気のなかったサッカーではなく、選手のよくやったわなと満足感なきにしもあらず、という、それに似ている。

そういうサッカーを見るためにトルシェに1億払うわけ?
だからそのあとすぐに韓国のヒデイングのサッカーも「この日の日本のサッカーと同じようなサッカーであったなら」相川が田舎もので、こういうことも書かない、言わない。

ところが韓国どうどうとしたパスまわしのサッカーであった。

パスをまわせばまわしているうちに
■ パスミスをする確率があがる
■ プレスを受ける
■ まわしても、くずせない、シュートにむすびつかない
■ いつまでも同じリズムで(観客からすれば「どうしてそこで行かないの」というサッカーになりがち
こういった問題がでてくる。
だから「それら」を解決するのが、コーチだと自分は思っている。
自分の言い方でいうと、韓国は「ほんみょんぼ(=森岡である)」が前半開始直後からでも味方のハーフを「さがし」足元にパスをつけて、ムダな肉弾戦をさけ、パスのリズムをだして、ボールを支配しようとしていく。
むろんそこにポーランドなりの「プレス」がくる、だからそのプレスを「はずす」ことがボールを支配する目的で、あってどうしたらプレスをはずせるか?そこが相川世界のコーチに学びたいところだ。
その答えは、例えば、日本対レアルのゲームなどで観察できたりする。(が、この項はここでカット)
次にといっても瞬時にプレスをはずしてかつ前へ攻撃できる個人の体勢になれば、そこが前へパスをだせばよい。そして相手が程度はあれラインをフラットにしているのが多いのだが、どちらでもよいが、とにかく(プレスをはずしただけでなく)ラインを『破る』ということになる。
うまくプレスをはずす練習を課してそれをこなしただけでは「ラインを破る」ということにむすびつかないのは経験できる。
ラインを破るパスをだせる素質、ラインを破ることのできるスピード(という素質)そういう前提も大切だがそれを置いても、柏の2人の韓国人トップ(それもトップらしいトップ)の得点のあげかた、そのまえのパス要するに、「サッカーらしい」
あと誤解するむきもいるだろうから、言っておくが、プレスを「はずして」その次の「ラインくずし」のところで、中央へ行くか、サイドへ行くかというテーマもある(が退屈なのでこれもカット)

ジャーナリズムで、監督やらコーチについて「これは国際経験もあるし、ベテランゆえ、あるいは経験がないゆえ、ああだこうだ」とよく言うが、準備の段階でそういうものさしを「あてるか」ゲームそのものの「運び方、采配か?」についてそういうものさしを「あてるか」微妙に事はちがってくる。

もうワールドカップ大会にはいってしまって「いるので」どう準備したのかについていま議論をするやつは、じぶんぐらいだろう。
それは自分の職業上の勉強になるからである。

あたりまえだが、チームをつくるのに時間がかかる「から」今目の前の韓国サッカー、ブラジルサッカー、日本サッカーを見ていても『この日の采配』ではなく「この日に至るまでの準備に、コーチだと思いがそこに行く」

最初にいったように、勝ち点1に、文句はない、ただ韓国『今の時点で、決勝トーナメントにぐっと近接した』日本はむろんまだ苦しい、なぜそうなってしまったのか?トルシェの采配について言う。

韓国の守備は「ほんみょんぼ」をリーダーに、ラインのあげさげは常識的で、日本の0‐1のあのオーバーヘッドをゆるしたときの、クリヤーのセカンドが、「そこに」もどってきたわけで、それをラインあげで対応しようとして、結局そのオーバーヘッドキックをした相手のそばに、いた日本人選手は、ほかの守備者よりひとつ残って、やけくそ気味に手をあげてオフサイドだと「叫んでいたが」どう考えても、オフサイドではなかった。

これで「終わった」と感じたが、そののち鈴木の敢闘で、すぐに1‐1に追いついた、こういうことは大いなる勇気をひきだす。

そして稲本のクリーンシュート、だがそこらへんで(25分すぎ)、「森岡」が痛んで、「で」ここが肝心だが、トルシェがなぜ、そこで森岡の代わりに、宮本をいれたのだろうか?誰も信じないだろうが、自分は2‐1になったときに「あそここそは」秋田じゃねーの、と思っていたら驚くなかれ、フェースマスクの宮本がでてきて(フェースマスクをつけたやつが心理的にヘッドを挑む、まんまんのきもちがあるのかと)、ところがやはり、またラインあげの、判断ミスをして(それが宮本の指示なのか、ほかの選手が従わなかったのか、かってにやったのかそんなことはどうでもよく立場として宮本「おまえ」だろう、身体能力のない「おまえ」をトルシェが買う理由は、森岡ではないときに、ライン統率をする知性と仲間をぶんなぐってでも、自分の考えに従わせるそういう仕事を期待したのだろう、ゲーム後「おまえ」がワールドカップのグラウンドに立てて「よかった」と言うコメントを言っているのにはがっかりした、戸田が批判を公表するのはよくないからという理由で、『ミスがあったのは残念』というようなことをいっていたが、それがとくにあの2点目の、2列めからでてきているやつにあっさりと破られて、2‐2となったときの「犯人はだれなの」というところを指すのは明確である。

選手も学習能力がないのかそれとも逆にいえば、監督トルシェは自分の「こだわり」にあくまで忠実なえらいやつか?
それとも勝負の過程での雲をつかむような感覚をいかに『超えていくか』に無頓着なやつかのどちらかということになる。

埼玉での、インタビューで『日本が仮に大敗したとしても、それがアジアの現実ということフラット3や、監督の責任とはならない』と言ったという。

こういうことを言い出せば、袋たたきになるということがわからない、中華思想のもちぬしだ。

同じような場面(がサッカーでは、とくにせったゲームの最後の時間帯にくるのだが)を韓国はキーパーと、守備のヘッドで堂々と空中戦を耐えて、2‐0のまま終えた。
わかりやすい。

日本も0‐1を1‐1によくしたものであるし、2‐1にしたのもたいしたものである。で、1点差をもって逃げ切ることができないのである。

2‐1にしたあと、おちついてカウンターというのが、上策だろう、「ここで」「トルシェ、まず下手をこいた」さらに、宮本をいれたのも「下手であった」
トルシェの硬直した発想が勝ちきれなかった原因だろう。

しかしすべて(トルシェの過ち)も含めてこれはサッカーである、勝ち点3は「どういうように日本人の指のあいだからこぼれおちたかといえば、このゲームでは、トルシェの思考回路のどこかで守備のリーダーをいれなければそれは「森岡→宮本」という固定観念に自分をしばったことからやってきたと思える。

あいてのワジェックがこういったという「日本が2-1のリードという」「誰もが予想しなかった事態になって」ここは正直なところだろう。
1-1のことにもどると、『元気がでるサッカーを選択した場合、よく経験できるが、そのなかでもやわらかいパスをだす(ここでは小野)やつからゴールが生まれたりする、おそらくあいての読みの感覚(野球でいえば、投手がスピードのあるボールを投げる途中に、チェンジアップすうりょうなものだ)が瞬間狂うのだろう』そういうこともおりこみ済みで、ロング多用のゲームを日本が選んだとしたら、それもまたサッカーである。
ワジェックが「なぜ1-2」になったのかというように自分のチームを見てその場で何を感じたのかが知りたいところだ。
つまりベルギーはすくなくともベンチは「このゲーム負けない」と前半から感じていたということである。
それでも1‐2と「されてしまった」さー、ワジェックここでどう思ったかである?
だって普通は1点リードされればかつ時間も押していれば、負けが読める(のがヨーロッパの常識だから)で、ここからさきは推測だが、そこでこそ日本の守備の欠陥が見えていたのではないか?