2002年6月26日(水) ドイツ対韓国準決勝

ドイツ対韓国 1―0

思い出してもらいたいのは、日本対ベルギー戦であろう。
そのゲームは、今ワールドカップでの初戦ということで、もはや免罪されているかのようだが、ひどいゲームであった。

とくに、右の松田の興奮しすぎのロングボールばかりの、それもミスパスばかり。
戸田もミス、ミス、ミスパスの連発ほかにもあったが、もし素直なコーチなら、ワールドカップというのは、そういう蹴りあい、にもっていかなければやはりだめなのか、と思いこまされてしまうところである。

韓国、このドイツ戦「も」大事なゲームであったはずだろうが、昂ぶるはずの心をコントロールして、パスゲームを始め出した。

他方ドイツは、身体性優位を前にだしてきたのだろうか、ロングを連発してきたが、それとても、韓国のプレスをショートやミドル、ドリブルアップも、組み合わせながら、かわしての、ロングであり、でそうした理由はよくわかる。

韓国の中盤におけるパスの方法は、その3―4―3というしくみのなかで、これは推定だが3のトップの外側は中盤では、タッチラインぞいにステイということをいわれているシステムではないのか?だから見方によれば、3-6-1にも見えるはずだ。
ほかの4のハーフも、また3バックにかかわらず、ほん・みょんぼも『ハーフ』の意識で中盤プレイをしてくるように設計されている感じだ。

で、そういうことを担保したうえで、ドイツのプレスを等間隔の距離のパスなど使えないから、ショート、ショートダイレクト、とばしのミドル、を組み合わせながら、つくっていく、それは確かに「うまく」かつ理にかなっていて、これがほんとうに韓国か?と思わせるほどだから、やはりコーチとしての、ヒデインクの力量であろう。

そしてプレスを「はずして」さてここから、ラインくずしというところで、やはりドイツの身体の厚いバックを「ひっくりかえすが」身体をさきに入れられてしまう。やんぬるかなである。

ラインを崩す裏を「パスでもとれない」
高いボールも通じない
ロングシュートも(カーンがいるゆえ)絶望的に見える
あとはドリブルプラスダイレクトショートしかないというゲームになった。

それにしても空中戦でドイツ優位という戦前評なのだがそしてそれは誰でもそう思うわけだが、『身体をよせておけば、そうはヘッドで失点するはずもない』ことをコーチなら知っているわけで、ドイツのコーナーキックに対してあたりまえすぎるが韓国マントーマンでやっている。

だからそのときそのときのコーナーの、ドイツの人のおきかたに応じて、韓国のかたまりの、形状がちがうあたりまえさがあるわけだ。

トルコにコーナーを決められたとき、日本の守備がラインで横並びになっていたが「あれはどういうことであったのだろう?」
むろん理屈としてはコーナーをクリヤーした「あと」セカンドを相手にとられたらラインあげをしやすいということであろう、それをそのときに「ねらっていたのか?」それとも「くせになっていたのか?」ということがわからないわけである。

というように、韓国を見ながら、トルコ戦にコールバックしていく。

トルコ対ブラジル

またあとだしじゃんけんといわれないために、試合前にゲームを考える。

日本で稲本が第1試合、第2試合とゴールを決めてつまり、この大会でスコアできる選手だった、わけである、そういうことは大会にならないと、わからない。
ついでにいうとトルゥシェは、この稲本は「個人主義に走っている」として、ロシア戦あたりから、ほしだしたというようだ。

稲本の、どのプレイが個人主義的なのかは、よくわからない。批判で言っているのではなく、よくわからない。サッカーはむろんチームスポーツである、だからこそドイツ人だろうがブラジル人だろうが、コーチはおしなべて「ワンフォアオール」を言う。

言うが、ドイツのバラックのゴールを見ていてもわかるように、ゴール前では経験てきにいっても、約束事も大事だが約束事「と」個人の意気込みのようなものを出せ、とでも言わない限り、サッカーが成り立たないということを感じるわけで、中盤までは、組織(つまりは約束)プレイ、最後のゴール前では、個人プレイを奨励はしないが、選手がそうしてもよいと思っている。

ただ、ここのところについては、問題として、研究、研究、また研究というエリアであり、かつ少しバランスを個人主義のほうに傾けると、そのコーチが、日本の四畳半で寝転がっていても、国際的水準に達する「はず」がそうはならないということになる部分だろう。

数年前、三浦かずがどこかヨーロッパへでかけていったときのドキュメンタリーを見ていて、そこで彼は悪戦苦闘するわけだが、それはつきつめれば、プロってなーにへの考察が、彼に足りない、ということになるわけである。

プロを難しく考えずにいえば、野球やサッカーを仕事にしている人間であって、その集まりがプロチームであろう。

だからどうしようもなく突出しているなら、そのものは(ほかからも内心疎まれ、嫉妬されつつも、あいつがいなければ、おれたちにやってくる金がそもそも、こないから)認められる。

けれど中途半端であるなら、確かなところ「ほかの選手の仕事をおかす、侵害していけば、ひとりでに、彼は敵になっていく」のはあたりまえのことである。

その番組のなかで、三浦君、あいかわらず『俺だ、俺だ』でいきなりやってしまうものだから、コーチからも「ほらパスだ、パスだ」といわれたりこれは、コーチでないと見えなかったことだが、なにか彼がやはり独善的にシュートをうった瞬間そのうしろにいた選手の表情がいとも印象的で、それは「こいつはいったいなんなのだ」という表情を顔に浮かべていた。

番組はそこで終わりだからそのあとはわからないが、その憎悪の表情を浮かべていた選手は、多分監督室に練習後監督を訪ねて行ってこう言うのである「コーチ、あなたが決定されることはわかっています、それにしてもあの中国人はサッカーを知らない、これではチームが勝てなくなるのではないでしょうか」ってなもんだろう、いつのまにか、他は笑顔をうかばせてはいるものの、異邦人めというような目つきで、彼を見初めて、で、「終わってしまう」わけだ。

ステイングは英国人だが、ニューヨークで「自分は、この街ではエイリアンだ」という歌を作ったほどだ。

ことほどさように異なる文化のなかで、生きる、働くことは困難をきわめる、ましてや相手国の就職口をひとつ、いただくということがひきおこす、相手国の人々の感情のさかなでというものはすさまじいものがある。

サッカー選手も、コーチもそう言う意味で労働者だから、それぞれのオウナー(雇用主)と、共に働く仲間をリスペクトしない限りは、職業として成立しないのは、日本の四畳半にいても考え付くことではないか。

つまりジャパンドメスで鼻歌うたっているようでも、頭さえ、冴え渡れば、インターナショナルに届くである。多少の経験あれば、それにこしたことはない。

稲本の話から脱線してきたが、元にもどれば、ブラジル、才能がそろっているといっても、この大会で得点をいれているあるいは得点をつくるきっかけになった「うーんとうなるしかない」プレイを見せた(ベルギー戦での、右サイドからカットインドリブル、右足アウトでひょいとリバウドにだしたパス、および、イングランド戦での
(あとで知ったのは、カフ-が、シーマンのくせを知っていたので、ロナウジーニョにねらえとアドバイスしたとのことだが、)大一番でそのフリーキックをいれたことおよび、1点めの、何人抜きか、わからないけれど自分に言わせれば、マラドーナのドリブルにも匹敵するドリブル→パスであったが、そうやって、大事な「ここのところのゲームで」攻撃シーンで印象深いプレイをしたロナウジーニョが欠場するのは痛い。

ロナウドがいる、リバウドがいる、代わりにだれそれがでてくる、というのもわかるが、それは相手も承知、韓国がすくなくともフローデのヘッドは防いだように、相手の、ここ数試合の得点パターンなどは入力済みだから、ブラジルの攻撃力が苦もなく、トルコをひねる、という予想は「ない」

するとやはり準決勝、決勝というのは別な見方をすれば、お互いの手のうちは全部さらしたうえでの、綱引きだから、そのときまでのヒーローが「爆発」するとしたら、そいつはスーパーだし、その逆には意外なやつが決着をつける、というように考える。

もうひとつの問題は、ブラジル3-5-2の、どたばたはどうなるのか?ということだろう。
ブラジルは伝統的に4―4―2であった。

それを3-5-2にしてのぞんだ。ロベカル、カフ-ともにヨーロッパで3-5-2は普段からやっていいるから、そこは問題ない、ないどころか、うらやましいウイングハーフである。

3-5-2をやっていくときだろうが4-4-2だろうが、守備ということでいえば、ほとんどの問題は「同じ」だが、微妙に両システムのあいだに「とりきめ」の差異がある、と思うのが相川である、

それらは
■ ライン(守備)の第1目標は中央からの、相手攻撃の阻止である、それには理屈はない要はストッパー、対 トップである。

■ 相手の攻撃のいろいろなパターンといういいかたにしても、つきつめていけば「いろいろ」はなくなってくる、守備が相手のある攻撃意図を封じて、ならば別な手で相手が来て、それをまた封じて、というように多彩なんていいかたは、ジャーナリストのいいかただから、コーチの用語にはないので、ただゲームの時間のなかで、野球の投手がやる、チェンジオブペース、ということはあるだろう。

わかりやすくいえば「思わず忘れてしまっていた、攻撃をしかけられて」「ああくるだろうと、よくそれを封じていたが、ああくる、かっこう、雰囲気から、こうきたので(そのこともおりこんではいたが)気がついたときは遅かった」というようなことである。

■ そこで最後にはサイドのスペースをどうするかという問題につき、4バックと3バックは申し合わせがちがうと、相川思うのだが、そこでブラジルは整理されていないように見える。べつにどう整理しても自由なのだが、トルコにリーグで先取点をいれられたときも、3バックラインを「くずす」典型的な攻撃をトルコにされて「それは3バックの外側に」ショートクロスをいれられて、ハサンにぶちこまれたというやつであった。ブラジルそのときも、ラインに人数はいたのである。

■ だからそれを別な言い方をすればラインは「中央攻撃にそなえる」「相手のサイド攻撃に、ラインはどうするのか?ほかのハーフはどうするのか?ウイングハーフはどうするのか」そういうことがおおまかでもよいが、整理されているべきだと思う。

■ ベルギー戦でも以前に指摘したように、ヨーロッパ(ベルギー)のコーチからすれば、組織が定まらない。
見てくれは3バックの相手に、常道的な攻撃をしかけて、ほとんど効を奏しかかったのもそういうところの整理がついていなかったのではないかと思った。

■ だから守備のシステムがうまくはいっていないものの、個々の守備選手の守る能が「ない」わけではないからということがひとつ、ブラジルの攻撃はすごいからという評価に(事実脅威でもあるゆえに)こちらの監督が「ひく戦術」をどうしても採用してしまうことが二つ、それゆえで、ブラジルここまできた。

■ ドイツが「ここ」まできた理由もけっして光かがやくものではなく、地味なものだが、サッカー的には正しい。一言でいえば「守備はひいて、相手をこさせてカウンター」だろう。トルコはそうするだろう。ブラジルもトルコがそうすることは百も承知だろう、ブラジルは気質もあるだろうから、慎重に守備を準備するが、攻めつ
けてくるだろう。

かれらのいうマリーシャ(ずるがしこさ)もふくめ、てすべてを出すだろう。それは「ひいているトルコ」に攻撃して、結果トルコのカウンターを覚悟するということになる。そういう闘いになることだけは、わかる。