2002年6月22日(土) ブラジル対イングランド他

2002年6月22日(土)

6月21日(金),ブラジル対イングランドの大1番をテレビで見た、みんなが言うことは別に言わない。

3-5-2ブラジル対、4-4-2イングランドでお互いの選手の動きはどうなのか?テレビで見ることができる限りチェックしたかった。

例えば、ロべルトカルロスはウイングハーフである、こちらが4―4―2だと、こちらのラインのサイドバックにマークさせてもよさそうだし、こちらのウイングハーフのベッカム、がマッチアップしてもよいわけだが、そこらへんの「きりわけ」をイングランドはどうやるのか?まーそういう視点で見たいわけであった。

最初のうちは、イングランドは守備の時間帯で、ブラジルの攻撃をふせぐに、おもにはへスキーが守備にまでさがる、というような約束のように見えた、したがって、ブラジルの3人のラインはオウエン「だけ」をウオッチしているようには見えた。

1―0は、そのへスキーが、その瞬間は「ハーフ」のようなポジションにいてパスを受け、ふりむいてオウエンに縦パスだがブラジルのルシオ自信過剰だろう、ミスしてオウエンにさらわれた、その瞬間にオウエンキーパーの左にシュートを飛ばす、かっこうをみせたので、自分から見たら、ブラジルのキーパーは完全に、オウエンに、騙されたようである。
オウエンがボールを送りこんだサイドの逆に上半身がダイブしていた。

1-1は、その直前に、イングランドのシーマンがハイ・ボールをキャッチしたとき味方と交錯、いやなおちかたをして、長い間、負傷の手当てをグラウンドの上でやっていて、「ああこれが勝負のあやをわけるのではないか」と思った、そういうことはよくある、まず第1には、イングランドは時間稼ぎをしたかったわけではないが、とにかく結果ロスタイムが長く出る、次にその負傷手当中に、それまではブラジルのリズムはとにかく「とめていた」が、ここからさきは推定だが、ブラジルはその休憩のなかで、冷静さをとりかえしたのではないか?

イングランドがその余計な時間があったゆえに「集中をきらしたかどうかは」わからないが、結果的に、ベッカムはロべカルのスライデイングともうひとりブラジルのバックのチャージが見えたので、飛びあがってそれを「さけた」

ここがむずかしいね、「立って、そのチャージを受ける」のは確かに危険のように見えた、だがとにかくベッカムの思惑では,ボールはタッチラインを超える「はず」が、そうではなくまだ生きて中に、と、そこへミッキーバットだと思ったが、プレスにはいって、とりかえしかけたつまりいったんはボールに触れたのに、また相手にとりかえされ,その次あたりから、ロナウジ-ニョのドリブルが「始まり」これを誰も止められず、リバウドに決められた。

こう言う(という意味は、こちらが「とった」とか「とめた」とかしかしそのすぐあとに、実はとられたとか、あるいは「ファウルだろう」とこちらの選手が勝ってに判断して、瞬間足を止めたりするときに)はいる失点というのがあるわけで、コーチなかせである。

自分が練習にでかける準備をしているうちに、ブラジル2-1になって、それがどうしてかフリーキックだ、フリーキックだと,言うだけでリプレイが見られないうちに練習に行った。赤坂の電気やのまえで人々が道路にあふれてこの試合を見ていた。タクシーが通れない。

あとで、ニュースで見たが、この失点よくわからない、多分シーマンの例の負傷は何かの空白を彼の意識のなかに生じさせたものと思える。
年も年なので、集中を維持できなかったのか?

イングランドはかくして消えた。

練習に行く途中、ラジオを聞いていたら、ジーコが次の代表監督は「だれがよいか?」と聞かれて、「それはまず、ワールドカップの予選を経験できたやつがよいに決まっているのだから、そういう資格をもつものは日本人にはいない」「だろう」「やはり外国人だ」という言い方に妙に説得力があった。

練習が終わって車に戻ると、知り合いのプロダクションの会長が六本木にきているから来てくれという電話で、「ドイツ対アメリカ」を見るのはあきらめた。
これが仮にイタリア対スペインのようなゲームであったら、そうはしないだったろう、どちらが勝っても、その勝ち方というのは、衆知の理由であろう。

6月23日(土)

ゲーム、韓国対スペインの最中はまた練習である。
2時から6時まで練習、終わってラジオをつけたら、まだエクストラでやっていた。
しかし「勝てばいいさ」というものの、対イタリアでトッテーがシミュレーションという理由で、退場、この対スペインでのゴール取り消し、とゴールラインを割っていないボールをアウト判定と、韓国はヨーロッパで商談をずいぶん失うのではないか、そのかわり、ちょんもんじゅは、これで将来大統領だ。


セネガル対トルコ、0-1

セネガルの身体性は確かに「描写できない」
だがトルコもさすがだ、後半トップのデイオフが、落とすボールにねらいをさだめてそこに数を集め、て、まず相手の攻撃の芽をつみにきた、他方ライン→ハーフはダイレクトを多用した「が」そのことで攻撃のかたちにもっていけていたわけではなかった。

ハカンシキュルは立派であったが、この日は僚友が出すクロスにどうしても「彼があわせられない」「キャプテンでもあるわけだが、さー監督交代させるかな」と例により自分ならどうするかと見ていたら「やはりかえてきた」結局右のダバトからアーリークロスがはいって、その交代選手がきめた、このときも最初はセネガルの
選手が、ファウル気味に、相手のハーフにタックルして「自分がタックルしたのに」『ファウルだから』『ゲームをとめてくれとでもいうようなアピールをして』実際はボールはその横にオーバーラップしてきたダバトにいわばこぼれて、その瞬間ある間ができてバックがあとおいのかたちになった。

日本対トルコとのゲームとはトルコ違うという人がいるが、それは、トルコがちがうのではなく、日本の守備がセネガルの守備とちがうからだと、自分には思える。

どこかの新聞に日本のファウルはその数が多いとあった。
やんぬるかなである。

体格で劣るゆえに、サッカーを知る人なら、理解できることだが、日本は「いつでも、どこでも相手に身体をぶつけにいく」というようなところがある。
どこの国も、「追いこみながら」あたってくる、あるいは「とれそうなときに、とか」「自分が優位にたったときにあたる」とでも言うようなことだろう。

なぜなら、そうでなくいつも当っていれば、こちらの関節が無理な動作を強いられたりして、こちらも負傷しやすい、とか相手も負傷しやすいということもあるし、相手からボールを「とる」ということと「相手の身体にぶつかる」ということは自ずと「違う」という考え方もある。

イタリアに日本人をつれてゲームをやったが、日本的な「身体をいれる」「よせる」はほとんどファウルと判定されていた。だから「どうだ」ではない、現に日本の審判環境のもとで長い経験をつんでいるわけだから、もはや「審判どうこうという」ことはまったくない、つまりあきらめた。

最後はきびしく身体がえげつなくくるが、ボールをもっているほうが「神経を集中してボールの保持に努めているとき」取る側が飛びこんだり、からだをぶつけてこなければ、お互いにある程度ボールキープになるわけで、そういうことがトルコ対セネガルのゲームのモードであったということだろう。

一つの例がロナウジーニョのドリブルに対応できなかったイングランドのあの強力な2ストッパーである、ロナウジーニョいつも口にしまりがなくて「バカっぽい」雰囲気だが、確かにドリブルうまい。しかしそのロナウジーニョであっても、どんなときでもドリブル成功するわけではないだろう、つまりそれを止めるバックもいるのだと
いうことだ。

とめにかかるバック、ぬきにかかるフォワードその帰趨がこのレベルの醍醐味だろう、一番すごかったのは、ロナウジーニョのドリブル→パスでもあったが、トルコ対セネガルで、ハカンシュクルが、彼の右にでてきたハサンにボールを落とす、ボールはまだ浮いている、そのハサンの更に右側から例の森島に似ているとされたハーフ(レバークーゼン)が突進ボールをたたいてゴールへ送りこんだに見えたが、セネガルバックゴールにむかってこのボールをおいかけラインの手前でかいだした、というあの場面であった。

個人的に言えば、こういうエマージェンシー状況でのバックの「かきだし」なんていうのが好きである、ただし、確かに、エマージェンシー「まで」持ち込まれる回数が増えれば増えるほど、こちらの守備は「良いわけではないのだから」守備というものを「高い」ところでやる、エマージェンシーにきてしまったら、運をたよりに全員がシューターに殺到するなんていうのがワークしそうである。しかし攻撃も多様な攻撃方法がある、わけだから、守備もその多様性に対して、対応できる、というほうが普通の考えで、よいと自分は思う。

このワールドカップレポートもあと1―2回書けば終わりだ。
ブラジルが優勝したほうが「よいだろうか?」わからないが、うるさいブラジル人の得意気なコメントを聞くのもいやだね。
またJリーグにブラジルから出稼ぎがいっぱいくるのだろうか?

Jリーグの成功を疑いはしない、だが点取りや、というときJがバブル的であったころ、トップとあがりめのほとんどが、外国製の選手であったのである。むろんそういう外国メードの点取りや、点のおぜんだてやを押しのけて日本人がでてこなければいけないわけだから、規制をどうこうではない「どうすべきだろうか?」わからない
のである。