2002年6月11日(火) ロシア戦翌日


対ロシア戦、少しシナリオはちがうが、「稲本1点買い」をすすめた、競輪場の予想やのおやじのような、コーチの眼力をみなさんも了解していただけたと思う。

テレビやら新聞に「でなければ生きていけない」元サッカー人が、テレビサイドからとか編集長からやんわりとか、ごりごりに圧力を受けて「こういうようにしゃべれ」とか「ああいうようなテーマにそえ」とかいうことで「サッカーサイドからのほんとうの情報発信になっていない」だろうということはそのとおりである。

しかしそういうほんとうの(良いことも、悪いことも)情報発信が「なされていない」というのは、ひとりサッカーに関してだけでもない、「この国では」素直なもののいいかたというものが、もともと疎まれてもいるのだろうか。

あるいはひとつの表現が稲本を「ほめれば」トルシェを「けなす」ような『構造』であるというところが言葉と文章にはあるから、口にした相川なら、相川が思ってもいないことを、指摘されて、そういうことは口にしてはいけない、というような『反撃』をくらうことがよくあって、こちらはとまどう、「なるほどそういう見方もあったのか」という感性が日本人たる自分にも「あるので」その反撃に、再反撃するわけでもなく、妙にバランスの取れたものの言い方を覚えるというのが日本では大人に「なる」ということのようだ。

さて、最終戦対チュニジアである。

ベルギー対チュニジア、分けて、各チームのポイントは

日本4
ロシア3
ベルギー2
チュニジア1

と、なった、いまや(おそらく)日本人のだれもが、シミュレーションをどこか、スーパーのちらしの裏にでも、書きつけているであろう。
勝負「だから」勝てば、文句なし。ここがいちばんわかりやすく「なんとなく気合もはいっているので」テレビにでてくる元サッカー人もおしなべて「勝てばいいわけです」としめくくる、そのこと自体は間違いもない。

日本ではない、他国のチームのスタッフのマインドに立って、ここまでを見ると、ロシアは、チュニジアに「勝って」おそらく「日本にも」「勝って」楽勝で本戦に「行く」その『計算』で本戦へのコンデション調整「なんてこと」を対チュニジアのあと深層心理ではあったのではないか?それが甘いともおもえないほど対日本のゲームも「内容」はあった。

現場のコーチは「のれん」の重みよりは「その大会における、チームの」「内容」を評価する(ついでにいえばその次が、相手の運もみる)
だからきょうフランスがポイント1であっても、デンマークに2点差をつけて勝てば、本選へいくわけだが相手のデンマークの監督自身がやはりというかさすがというか「フランスは依然として、今大会随一の実力をそなえたチームであって、唯唯」というコメントをだした、というのを聞いた、がつまり「内容」は凄いと実際の今大会の2試合から評価した、ということだろう。

それと同じで、ロシアの対日本戦の「内容」もコーチ的視点からすると「いろいろこまかな弱点とか欠点も見えた」が(それは普通の人には関心もないことなので)日本よりはベターといってよい。

それでも、ロシアも、今大会ポルトガルとかイタリアとか、アルゼンチンとか、フランスというようなチームがおちこんでいる流れのなかに対日本戦の(かれらからしたら計算ちがいで)結果「まさにいま、おちこんだ」わけである、

それではベルギーはどうであったのか?
もともと今のベルギーチームは今大会の活躍を国民から期待されなかった、というような論調があるが、そういうことは「どうでもよく」日本に2点、チュニジアに1点「とられて」守備が「よくはなってきたのだろうが」大会の初戦のタイミングにあわせて頂点、ということではなかったのだろう。

だから国民の期待ではなく、コーチの予期「から」して「勝ちたい」というのは常ではあるが、ポイント2(これが意味するのは負けてはいないということで)、対ロシア、勝てばポイント5で、本選へいくわけだから、今までのところで、計算だどうした、とは思っていないはずだ。ロシアを『守備』で押さえて、カウンターをかけるという戦術「しか」ほかに思いつくものがないが、それで「勝てば」ベルギーが「ゴー」である。

だからロシアもベルギーも勝ちに「でてくる」理屈のうえではロシア分ければポイント4で、日本対チュニジアの試合結果に関係なく、本選行き、だが『分け』を狙うとは考えにくい。「分け」をねらって、時間的に挽回できない最後のところで0-1にされたら、ベルギーが『ゴー』なのだから。

しかも仮に、そういう消極策(に見えるゲームをロシアが選択すれば)暴動がまた起こるから、監督の解任圧に今、敏感になっている、

ところで暴動といえば、モスクワで日本人の留学生が襲われたとか、日本料理やが襲撃されたとかいうのをきいて、「まったく免疫のないことだ」と嘆息した。襲ったほうが、悪いに決まっているが、じぶんが中国人だとしても、ゲーム直後にモスクワの町を歩いたりはしない「だろう」かれらは中国人と日本人の識別つかないから、モンゴロイド「なら」襲う。

昔アメリカのミルウオ‐キーベースの会社で働いていたとき、ミルウオ‐キーはアメリカンフットボールでいうとパッカニヤーズを愛する土地柄であったわけだが、応援するときチーズのかたちをした緑色(チームカラー)のキャップとか、なんというのかわからないが大きな指のかたちをしたグッズでもりあがるわけである。

日本へのみやげで、ミルウオ‐キーの場合は、シカゴオヘアがハブ空港だからシカゴの空港売店でTシャツでもとウインドウショップをしていても、シカゴはシカゴで、バスケットはシカゴブルズ(ジョーダン全盛期のころ)のグッズばかりである。

そこでアメリカ人の同僚に「パッカニヤーズのTシャツを着て、例えば、ロスアンゼ
ルス空港へ降りると、どういうことになるのか?」と聞いたら、真顔で一言「パンチをくらうな」という。こいつはあまり冗談はいわないドイツ系移民の子でそういう配慮というのか余計な刺激はしない、というのかそういう事柄がわかっているわけである。

さて冗漫なはなしはどうでもよいが、チュニジアは今どう考えているか?
確かに来日当初はチームの体をなしていなかったのだろう(これがだれの心にもJ2のチームに負けたとか、ガンバに負けて、西野が代表になにかアドバイスしてやろうとしたが、なかったとか、というかたちでインプットされている←ここに注意)

対ロシアおとしたが、ベルギーに分けてポイント1で、日本に勝てば、ポイント4、ロシア対ベルギーの試合結果にもよるが「自力での本戦ゴー」に可能性を残している以上「日本に負けてくれるために、最終戦にのぞむとも思えない」のは必定である。

ここですでに「日本」にはトルシェの脳内と、選手の脳内の分離が見られる「わけ」だから、これからは、トルシェが「なにを考えていくか」選手が「何を考えていくか」そこらへんは明確にわけていかないと、この最終戦についてシミュレーションは「できない」

この分離は対ロシア戦で多くの人が実際に『目にしたわけである』しとくに守備の面で顕著であったのだが、ここでそれを整理すると、

           ( ベルギー戦 )          ( ロシア戦 )
フラットへのこだわり    トルシェ 支配          推定だが、選手のうちあわせ
ラインの位置        ボランチがラインから離れた  ボランチにステイ
                                ラインもへたにあがらず
相手の攻撃         多様であった          ある意味ワンパターン
相手のプライド        強い               傲慢
日本の攻撃         明確なポリシーなし      カウンター

この左の項目に関して、チュニジア戦の、戦前のチェックを、トルシェが「どういれるか?」選手が「どう考えるか」がポイントになるだろう。

対チュニジア戦   (  トルシェ ) ( 選手 )

 
フラットへのこだわり    トルシェ支配を『望む』      『良い子』の森岡が
                                出てくるとフラットにこだわるかも
ラインの位置         ここで頭を悩ますだろう
相手の攻撃         ドリブルが強そうで、かたちが「つかめない」カウンターにきそう
相手のプライド        プライドはむろんあるが、むこうがチャレンジャーになりやすい
日本の攻撃   前半守備的だが、後半明確なポリシーなし 相手にひかれたときどうするか

つまりかんたんにいえば、ベルギー、ロシアとも対日本「攻めつけてきた」日本はベルギーの前半は「無が夢中」だった、後半も明確にカウンターを意識せず「お互いうちあう」といったゲームを選択した。
ロシアでは守備を固めてカウンターをしかける、という、明確な作戦が「あった」

では同じ作戦で対チュニジア、やればいいではないかというが、チュニジアは「おそらく」むこうがカウンターをひきにくるのではないかという予感が「あることが」このゲームのポイントであり、かつあいての攻撃が、とくにロシアのように、ロシア・フォルマリズム(形式主義)とでもいえる「かたちが見える」ものではない(だから守備の計算がたつのだが、)チュニジアの攻撃そうではなさそうだ。

そのくらいのことはトルシェにもわかっているわけだが、わかったうえで監督として選手に何を指示「するのか?」は『まだ決めかねているはずである』なぜなら、ここで「負けても」0-1なら、『良い』という悪魔のような「ささやき」がくるからである。
景気よく「勝ちにいく」という考えのすぐそばには常に「カウンターをくらって、0-1」という現象が、サッカーでは「ある」わけだ、ところが今回0-1なら「本戦に」「いける」のがこのケースである、さーどうするトルシェ?

景気よくかちにいくために先発を大胆にいじったりすると、0-1、0-2なんてことも起き得るのが、サッカー(ということはトルシェも知っている)そうなったらそれこそトルシェ、暴漢に襲われるだろう

他方選手は
チュニジアの試合に実際になったら「やるしかないわけだから」それはかえって楽、ところが試合前に「考える」としたらむしろベルギー、ロシアよりやっかいなチームであることもおそらく知っている「ベルギー、ロシアは」試合前でも「これしかない」というアイデアの良い意味での『幅狭さ』があったが、チュニジア戦では選択し、がかえってある「ので」さー「どうしようか」ということになるわけだ。