2002年6月07日(金) フランスそして日本


2002年6月06日(木)は昨日夕立で練習中止になったグラウンドで、きょうは練習がはけた、そのあと、杉並にもどって、別なチームのコンデショニング、赤坂へもどってフランス対ウルグアイの1次リーグとしてはすごいゲームを見た。

フランス対ウルグアイ、0-0

■ フランス、分けてまだ死なない、という意味ではやはりすごい。

マスコミ、マスコミ御用達評論家、ど素人「あげてフランスには圧倒的な勝利を求めて」やまない、この日本人の「幼稚体質」がとにかくいやだ。
ウルグアイという看板では確かに勝てないが「ウルグアイ」という看板は、「これは相当なものです」
だから「フランスなんかに負けないぜ」というような表情では「ないけれど」すくなくともフランスに「怯えている表情は、していない」
ぜひとも「そこをみてほしい」わけだ、また解説松木も「そういう」ことを「仮にももと選手、監督なら、指摘してほしいのだ」
サッカーの歴史「から」いけばウルグアイも巨人なのだ、ウルグアイ人はそういう意識をもって、『フランスが、なんだ』としてゲームに臨む、だからこそこのゲームもおもしろくなり、かつ『見るものは、勝ち、負けのバランスが瞬時にかわって、フランスのだれかがシュートを打った直後に、フランスのストッパーが必死になってからだをはったり、フランスのキーパーが『足』でボールをクリヤーという場面のいわば『ジェットコースター的な』サッカーの醍醐味のひとつを味わえたのである。

そうではなく戦前にフランスが今度こそ「例えば、3-0で勝つことが」フランス「らしい」のだと、「そうではないのだから」このゲームには失望するのだと、そういうことならこれは完璧に「まちがっている」

「サッカーは6月で滅びる」と5月31日の巨人(東京ジャイアンツのこと)対広島のあとで、巨人の渡辺恒雄オーナーがコメントしたのです。
「ワールドカップは6月で終わる。日本におけるサッカーは、これで滅びるはずだ。国民がサッカーか野球のどちらかを選ぶはずだ。サッカーより野球だろう」と言ったのである。

これはこれで「おもしろい発言だな」と言う感想、だが、そのコメントにつきどうこうではなく「「またフランスに失望しました」なんてたぐいのテレビ、新聞のコメントを「する、あるいは言わせたい」やつらはいってみれば、野球のジャイアンツが10-0で勝てば『ご機嫌』という、スポーツを「ついにわからない」たぐいのやつに似る。

「このフランス対ウルグアイ」の「ようなゲーム」が「あるから」もちろん「サッカーは滅びない」渡辺氏もそれは頭のなかにはいっているから、ワールドカップはともかく、それが終わったら(日本では興奮するゲームを見られない、という意味で)日本におけるサッカーは、これで滅びるはずだ、とコメントしたわけだ。

だからこそ野球型思考(それが何かはわたしもわからないが)「前回チャンピオン」「だから」『快勝であたりまえ』というかのような思想、感性を「排せ」といいたい

フランスは充分に「チャンピオンになる力」を『今も、もつ』
それをグラウンドで『見せつけている』というところまではいかないが「見せている」
玄人ならそう見える。
でも勝てない、まず得点がはいらない。
では、それはどうしてなのか?
玄人の関心はそこに「くる」
そういう視点「で」テレビの画面から、その「なぜうまくいっているのだが、ゴールははいらない」のかの「答え」をさがせたらいいねと思って、見ていたが、正直「よくわからなかった」。
ルメールが「ハーフに問題あり」とは「思っているらしい」ことはわかる。
それは対セネガルで、ジョルカエフを出して、で、この日は、ミクーを出してきた、そのことでわかる。
トレゼゲやらアンリあるいは、ジダン「あたりまでが」ルメールに「ジョルカエフではだめだ」と言っているのかもしれない、わからないが。
どちらにしてもフランスのコーチ達、あるいはルメールが(かざりものかもしれない)が、この時点では、チームの問題点は「攻撃ハーフ」に「ある」と考えていることはわかる。

他のメンバーは基本的にかえていないしね。

では聞きたいのだが(ルメールにでもフランス人コーチにもね)「ミクーで、だめなら、どうする?」というアイデアを「用意するのか?しないのか?」ここらあたりがコーチの興味だが、それは普通のひとたちにはおもしろくないだろうから(ここでカット)

ポイントはこのゲームの結果、デンマーク→4ポイント、セネガル→4ポイントで、かつフランス、ウルグアイともに1ポイントになってまた最終ゲーム(同時刻にキックオフ)に「かかる」すごい状況になった、というのはフランスはデンマーク、ウルグアイはセネガルと絵に描いたような「読めない」状況になった。
1ポイント組は「勝たなければ」(得失とかそういうことを今は議論しないが)いけない、しかもフランス、ウルグアイとも「勝てる可能性がある」というところが「すごい」

フランス対デンマークの、興味は

■ フランス、攻撃ハーフをどうするか?
■ デンマーク、どうやってフランスの攻撃を守るか?

フランスの問題はなにか?
くりかえしだが、フランスすばらしいパス交換である(ついでにいえば、アンリ退場で10人でも圧倒的な攻撃力である)、だが、ゴールを割れないということだ。

ジャーナリズムのいいかた、「トレゼゲがセリエの得点王、アンリがプレミアの、セシがフランスの得点王」なのにゴールレスで2ゲームである。

最初の対セネガルではジダンの代わりに、ジョルカエフを使った、それが結果「間違っている」と監督ルメール、自ら、認めて、で、このゲームはミクー、である。

だがジダンの代わり、ジダンの代わり、とそういうことではないのではないかという「疑い」をもちつつ、相川テレビ画面を見詰めていた。
結局アンリ、トレゼゲでは「点をとれない」という結論にこのゲームで監督が達するべきだとも可能性のひとつとして考えていた。
それとミクーのパスを見ていても、1番目に出していく当然オフサイドだ。

そういう『ラインくずし』にくふうがない。

つなぎすぎるフランスであるゆえ、最終パスのそのさきにいつもいう変化がないと、でそこでジダンという論理はある、が、トレゼゲにパスを「出す」のは彼等の所属するクラブではジダンでもないアンリにもしかり、セシにしてもしかりだ。
ルメールあるいはフランスが「ハーフが主導するサッカーに、傾きすぎているのではないか?」と(コーチとしての疑問を思った)

そのてん、もっと素朴なサッカー(トップの好むボールを、うしろが蹴るという意味)をする、カメルーンが、1-0でサウジに勝ったが、注目のエトーがロングパスを受けて、シュートを決めたのと対照的である。
エトーはくりかえしシュートの場面をみればわかるが、スピードにのって、走りながら、「小さく」前にシュートする「ふり」をしてキーパーの「動きを、とめ」シュートのタイミングをキーパーに読ませず、ボールをゴールに送りこんだ、セネガルが1-1においついたシュートも、デイアオが、突進しながら「キーパーと対決」してキーパーの逆をとるシュートである。

こういうようなシュート場面も「あるのが」サッカーだろう。
そしてそこでは南米系、アフリカ系の連中の「スピードのなかのボデイ・アクションとでもいうふるまい」が目立つ、そしてキーパーは一瞬、無力化される。

フランスのトップは今の所は、その微小時間の中での、対キーパーへのフェイントとでもいうアクションが見られない「ずどんと蹴りだすか、ループでも、いまどき日本の高校生でも、そこは確かにループという場面で使っている」だからキーパーにキャッチされ、はじかれである。

セネガル対デンマークではトマソンが先取点ピーケー、1-0で勝てるかと見えたが、デイアオに1‐1とされた。

セネガルが、ウルグアイに勝てば、文句なしだが分ける可能性もある。ウルグアイの守備も強い。攻撃も守備もサッカーでいう、プロ的なこずるさ、汚さ、もりこんであって、かんたんにはくずれない。

2‐0でフランス、デンマークに勝てば可能性あるようだが、それは、ジダンの復帰ではなくとも充分可能であろう。アンリが使えないのでセシを先発で出せるから、かえってセシ の単純さのほうがはやい時間帯でゴールをあげられる可能性が見える。

ここをもう少しコーチのために言うなら、アンリもトレゼゲもふたりとも身体頑健、パワーもスピードもあるが、自分には「繊細さが好きなプレイヤーに見える」だからこそ『美しいゴールも生まれる』そういう二人を組み合わせることもアイデアだ。

ここにまた別な組み合わせもある。
「繊細さより力、あるいはあいてを破壊してまでもという、そういうゴール前プレイを好むトップ」である。そういうトップとアンリ、トレゼゲのようなトップ、心理的に合わない、ということあるが、相手の守備の精神分裂をひきだす、ということもある。

セシという選手まだ充分観察はしていないが、セシはセシで「トップとしての自分の好きな、ボールに挑戦していけなよいわけだ」するとフランスにとって好もしいことが起きれば、『セシではなくて』トレゼゲのシュートが決まる、ということがおきる、それがサッカーである。

■日本対ロシア(承前)

自分が代表監督「ならば」いかにロシア戦闘うか?
そのシミュレーションを昨日(6月06日)はしだしたわけである。

どんな考えかたでも、『自己陶酔』ということがある「から」コーチに限らないが、自分の腹案をさまざまな『角度』から自分とはちがう視点で検討してくれる人を「そば」におけるかどうか、それがその監督・コーチのもたなければいけない環境設定のなか、英語でいえばMUSTの設定になる。

ただし信頼おけるスタッフと、議論しああだこうだはよいが、悩んで決断しない、ということでは、彼にかわる助言者のほうがその監督をやるに適任ということになるから、そこでまた監督のほうに、アドバイスにどう対処するかの『スキル』が必要だろうし、また監督にアドバイスを「あげられる」ものも、野心まんまんなやつでは、せっかくそいつの頭が切れても、監督にすればわずらわしい奴に見えて、まわりに「よりつかせもしない」、監督から信頼されなければ「いけない」わけで、アドバイスを「するものの」スキルと人間性が問われる。

トルシェ、どう考えても、山本を信頼はしていないだろう。元ヤマハの選手、山本の能力とか人間性を言いたいのではなく、日本人をそもそも蔑視していそうだから、山本のことを石ころぐらいにしか見ていなそうである。

で、それはともかくどんなアイデアでもよいわけだ。

まったく古い(からほとんどの人には理解もできないが)日露戦争で『天気晴朗なれど、波たかし、皇国の興廃、この1戦にあり』と今は東郷神社に眠る、元帥東郷平八郎が対ロシアのバルチック艦隊との日本海決戦で、相手の艦隊列の横腹から攻撃をしたあの作戦のアイデアでもなんでもいいのである。

このとき東郷元帥、バルチック艦隊を視野のうちにいれてそののち「なんとか回頭とかいうやつで」日本の艦隊を相手の横腹につけたのだと記憶しているが(間違ったら、失礼)それで相手(ロシアである)をほとんど殲滅した。

こののち、東郷元帥は日本海軍における伝説と化してしまって、老いても「元帥がああいっているとかこういっている」とされて旧帝国日本海軍だれもさからえなかったということらしい。
太平洋戦争においてでさえ、東郷の思惑を「図って」作戦構想を気にする、現役のジェネラルがいたそうである、
トルシェ、で、あるならば「誰を気にする?」
静岡の山のうえで、これはいってみればていのよい「ひきこもり」であるが、日露戦争のことなど毛とも知らないやつであることはよいが、ロシアと日本は因縁があるのだということ、日本とベルギーの比ではないことぐらいは知っておいたほうがよい。

まず突飛なものから、古典的な確率論的にみて汎用性しかないアイデアでも、おのれの前頭葉野に浮かぶものは、すべて要検討である。

さまざまな仮定が現実にそうなるかどうかは関係なく、仮定をいくつか「ほうりだしたまま」仮定のさきにシナリオをつくる、

例えば、仮定(1)もしロシアが、前半スローペースでもかまわないという選択なら、こちらも「かならずしも対ベルギー戦のごとき、リスクのあるロングパスを連発して、いろいろとこちらの守備が、こちらのパスミス、パスカットから危機になることを防げないような、テンポのゲームをしなくてもすみそうだ」→ならばハーフにボール支配を可能にする選手をおき、あたかもロシアと「がちんこは、後半からね」と共犯するようなゲームリズムになるかもしれない。

そうしたら「むしろ稲本はじゃま」だから、6月06日の対静岡産業大学の練習ゲームで『負傷させて』マスコミに情報リーク、ロシア戦、前半はベンチである。

4バックでも3バックでも自分はそこはあまり問題にしない。それより前半の0-0をどう担保するかだ。
ハーフを厚くだね、どんなメンバーがいるかどうかだが?

ラインの前に「戸田、明神???、小野、福西だれでもいいさ」どうせこちらの、攻撃は縦1本と自分は見たから、それは小野やら中田にまかせて、トップは中山でいいのではないか、元気はでるわね。中山は45分。

そこで後半に勝負ということで負傷していたはずの稲本を投入、中田を外に、外にいかせて、稲本勝負というすじがきも荒唐無稽ではない。

なにごとも「勝てば許される」という考えだと、こんなこともできる。
そしたら8時45分まで、0-0、9時25分ごろに、稲本が決めるか、中田が決めるかで日本予選通過が号外ででる(というように勝つなら、こうなるでしかないという読みだから)本当にそうなるのですか?ではない、そのとおりにならなければ、こちらが負けるということなのである。

仮定(2)えてして「決戦」のとき好天にめぐまれない、ということ多い。
6月09日、大雨ということもありうる。芝だからイレギュラーはともかく、対レアルのようになることだって、ありうる。
だとしたらサッカーにはならない。ではどうするか?

このシナリオはあまりおもしろくない、から説明しない。雨天用の選手どこまでいれるかの話しである。バックの交代無用、攻撃で、いくらでも最初からエンジン全開でよろしい。疲れたら、交代、交代、また交代、理不尽なコンビネーションが効果あるゆえ、森島、西沢はセットで出すこと、理不尽なというのは理屈をこえて「わかりあっている」のでなければ『出せない』『走りこめない』ボールのつながれかた、動きのしかた、をいう。
西沢と森島のあいだには「それが」ある。
それ以外の仮定は今まで「でてきたアイデア」で、前半はベルギー戦と同じ。かえても1ポジションぐらい、なぜならベルギー先発の日本選手とその布陣はよいかわるいかはべつにトルシェが『信頼を置く第1セット』だからかえても1ポジションというのは、ルメールが、ミクーをいれてきたぐらいで、ここにきてトルシェがいきなり、大幅に先発を変えてなどということをしてきたら、かえって軽蔑する。
柳沢にかえて、さーどうするかぐらいはあるだろう、それもマスコミ対策だろう。

このあいだ0‐1のあと、鈴木が1-1にしたということは、ほんとうに大変なことで、極端に言えば、1-1でわけて終わっても、それと稲本が2-1に途中まではしていたことと結果2‐2に終わったことと何の違いがあろうか?
1-1の分けと結果2-2の分けに、差異はない。
1-1で終わったとしても今となっては「よかった」ということになっているはずだから、その1‐1にした、鈴木、韓国なら「徴兵免除特権もの」だろう。

鈴木先発ならむろんゴールが彼の仕事だが、先取点を仮にとられて「また1-1を机上のプラン」で期待はできない、ということである。

先取点をとりにいきたい(いつかはべつに)と考えるのが普通である。
だがハウ(いかに)であろう?
また鈴木が同じように点をいれるというのは考えにくい、別なチャンスを生かすことは「ありうるが」それが読めないから、ワールドカップに突入する前、頭をかかえていたわけだろう。
ロナウドが「らしい」ゴールをしたとか、ユ・サンチョル「らしい」ゴールとかだと少しは安心するわけだが、それと少しちがうので、あの1点は「よかったが」それと「また同じように、もう1点ね」というのとはちがうよ、ということである。

ここらへんは、杉山さんが週間新潮でしっかり指摘しているが杉山さんのいう「私と釜本が何度もセンタリングで得点のかたちを」練習したという、ところを、短くいえば、「ラインくずし」の練習の大切さと、その「かたち」が今の日本代表に「ない」ということである。

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プレスはずし→ラインくずし
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(高いところでの)
プレス   →少ない手数での速攻
プレスくずれ→どういう守備
エマージェンシー
コーチに練習の「くみたてかたを」説明する際に上の図をいつも書くのだが
トルシェ氏はどうやら、プレスはずし→ラインくずしというところはやってこなかったようだ。もしそうならどんなアイデアをだしても『手遅れ』でロシアにも『プレスかけ→少ない手数での速攻でいくのだろう。

どんな分野でもアイデアのでかたは爆発的なものではないだろう、コーヒーを飲んでいて、他人としゃべっていて、テレビで他のゲームを見ていて、自分のように「朝めがさめると」けっこうさえたアイデアが「やってきている」ということもある。

このアイデアが「でているうちは、まだ自分も生きている」という実感がある。
出なくなったら、まー「人ではなくなる」ということだろう。