ワールドカップ前夜

2002年5月14日(火)

親しい人との何人かには、数日前から『トルシェがワールドカップ前とか、ワールドカップ期間中に、代表を投げ出すこともあるね』と御用達マスコミからすれば「よた」に近い話しをしていた。

兆候があるから、そういうことをなかば意地悪で言っているのだが、むろん人間トルシェ氏の、内部にある「反発力」をもってして、今そこにある、トルシェの危機に勝ってバランスをもどせば、チームの結果はともかく日本代表監督としてワールドカップを戦う、ということは大いにあるわけである。

それよりさかのぼってもよいのだが、まず対レアル戦、門外漢の自分にはこのゲームアレンジがそもそもどうして成立したのか、まったくわからないが、公式には、レアルが日本代表を、クラブ創設100周年記念で、招請したということでテレビでも言っていた、そこに裏があろうがなんだろうが、その裏読みなどはBull Shitのたぐいだろう、だがいかんせんあの、スタジアムの座席ばかりが見える、寒い光景はどうだ、『笛を吹いたのがだれかは知らぬが、サッカーを愛する(ということが、良いサッカーを愛するというのと同義語である)ヨーロッパの、笛を吹かれる人たち』の健全な常識が、当たり前だが、あったということをトルシェにも、また日本人にも、それからついでにいえば、トルシェをかついで口先商売をしている評論家にもつきつけたわけではないだろうか。

だって「すごいゲームの予感がすれば、冷たい雨だろうが雪だろうが、人々は押し寄せる」というものだろうに。

ほかならぬ「感性」の人であるトルシェがおそらく誰よりも「その現実を感じたはずだ」
「トルシェwho?」「日本代表それってなーに?」「フラット3、へー」という、こちらがわのマイナスの3位一体がマドリッドの観衆のなかに血脈としてある、正統性のあるサッカーの前で、くだけたのである。

冷たい雨が降っている、冷たい静寂がスタジアムに根をおろしている、日本のスピリットはどこにいったのかというような、あのゲームで、ああいうかたちで、崩壊したと私は見た。

ただし、わたしは、トルシェを気の毒には思う。

この世の中はだれでもそうだが『言っていることは正しいのだけれど、スモール・ポテトのうちはだれも聞いてはくれないんだよな』ということだよね、トルシェさん。

たちあがり稲本が突進したときにファウルがあって、サントスがキックした、あの瞬間に、普通の言い方だと、10億の金が手からこぼれていった、というところを、サントスの足からまさにこぼれていった、というわけだ。

フットボール・ネーションとしては、むろん日本と日本人はまだスモール・ポテトなのだ「から」あのステージをもらっただけでよかったわけである、観客もいなくてよいわけである、しかしそこでどういうやりかたであれ(北朝鮮がイタリアを破ったことが、1966年だから以降40年近くも、語り継がれるように)記憶に残らなければならなかったというわけだ。

トルシェもそれを夢見たろう(自分でも夢見る、準備して、準備して脚光を浴びるステージに出て先行者を倒すそうしなければまたどさまわりというあたりまえのこと)、そしてトルシェも方法論として、だからレアルとのゲームではなく就任の日にさかのぼって「守備」について「自分の守備は人をとめるのではなく、ボールをとめることを意図する」として彼の流儀を導入したわけである。

それは商売人としては正しい。

トルシェの守備のやり方をためしに、グラウンドで真似すると「おもしろいように」相手を混乱状態におとしいれられる、ということぐらいコーチならすぐわかることである。
お互いに未熟なレベルでは守備が攻撃に勝つ(これがあたりまえではないか)
しかしここで立ち止まる必要があるのだ。

守備「だけ」でよいのかと?

サッカーはトルシェの専売物ではないし、世界にはいろいろなサッカーが「あるはず」だし、また「守り倒すサッカーは」「見ていてもおもしろくなかったはずではないか」
守備からはいって、攻撃を準備する、しかしトルシェの守備は確かに積極的な着想で、その守備が成功すれば、要は「楽にゴールゲットできるような」ところがある、そしてそこに落とし穴がある。

トルシェのなかの「チームを創って行きながらの、では攻撃はどうするか?」という彼の着想がむろん他のコーチからしても「知りたいところだ」口ではなんともいえる「から」彼の創造物たる、代表のゲームからあれこれ推定するしかない。

トルシェがこうもいった「システムのなかに、個人をはめるのだ」と、この魅惑的な考え、管理スポーツではないサッカーに「ダイレクターの管理」がはいってそれがワークする、というのはサッカーコーチの夢である、だからだいぶ昔に、どこかで、選手のひとりひとりに(当時のテクでは)最小のワイヤレスレシーバーを「もたせて」コーチがいちいち『ああ動け、こうボールを運べ』というゲームをやらせたということがあった、それでその記事には結果は失敗であった、と書かれているが、「なぜ失敗であったかは」「サッカーは個々の判断に依存する」「スポーツだから」としか書かれていなかった。

さもありなん、とは思うものの、こう言う方向で発展というものを「考える」のがだめとは自分も思わない。
勝ちたい、監督の責任を果たしたいから管理「したい」管理「の可能性」をさぐりたいということだ。

だが、すこし躁鬱というのか、実際、鬱にトルシェがなるかは知らないけれど、勝ったときの「勝ち誇りかたがちょっとついていけない」という気がする、どこでいったか忘れたが「日本はワールドカップで優勝するとか」このあいだスロバキアに勝った後だと思うが、「このチーム(日本)にはもはや監督はいらない」とか、どこかの中学の先生が、1回勝って、そこで大騒ぎするのに似ている。

まーそれでもかまわないといえばかまわない、問題は、では「ダウンのとき」彼はどうするのか、それだけだ。
それが『今』きてしまったのではないかと見るわけである。

レアルに負けてトルシェは新聞によれば「攻撃がもっと、臨機応変にやれる」と思った、と「攻撃についてコメントした」これがなにをいうのか、これだけではトルシェの頭になにが「よぎったのか」はわからない。

フォワードが怪我や病気でリタイヤしていくなか、おそらくは「中山あたりを念頭に」マスコミが「追加をしないのか?」と尋ねると「ではエメルソンを帰化させろ」といったという、これはむろん皮肉である、「おれにもっと優秀な、スーパーな点取りやをよこせ」という意味だ。そういうのが「この日本のどこにいるのだ」と毒付いているわけである。
おれは苦労しているんだというところか?

おいおいそんなことは「最初から、つまりは君が日本を引きうけてすぐにわかっていたことではないか」さらには選手をシステムにはめこむのが君のやりかたで、「それで勝てる」と「多幸症」ではないのと思えるほどに「はしゃいだ」「から」反撃をくらっているんではないの?と言いたくなる。

さて対ノルウエイである。

対レアルは「中田」がいない「小野」がいなかったそのことをマスコミや御用評論家がああだこうだということが問題ではなく、トルシェの「心理」はいかがなのか?である。

結論をいえばどうやらトルシェはさきほどから自分が「のべている」テーマである「攻撃をどうするのか?」へのトルシェの答えが「攻撃は、才能あるものに」「まかせる」というようなものであるらしいということだ。

これは自分には納得もいくというより、コーチならあたりまえの考えである。

ここから先が一般の人にはわからない話になる。

経験からいって、チームを形成していくとき「守備」の効率をマキシムなものにしたいときトルシェのいう「システムに個人をはめこむ」というアイデアが極端としてある。

つまりトップ=フォワードは守備の仕事など実際はしない、よという現実があるわけで、そういうフォワードをどうやって説得してある程度は守備をさせると言う問題もあれば、そのフォワードの破壊力をひきだすという問題もある、この問題はフォワードだけが処理するわけではなく、フォワードに良いパスをだしてやるという古典的な問題だから、全員の問題なのであって、つまり、全員の「攻撃面」における問題なのである。

だからわかりやすくいえば「守備」だけではなく「守備」も「攻撃」もだと、自分は未だにそう信じている。

トルシェの得意「高いエリアでボールにプレスをかけ」「3本か4本相手がつなぐあいだに」「ボールを奪い」「そこからさらに少ない手数で速攻」という考え方は悪くはない。

ところが相手のノルウエイは、「ロングを多用」したので、いきなり日本のラインがボールに挑戦しなければならぬはめになった。

このノルウエイの「戦術」も古典で「日本が、ノルウエイのエリアのなかで、ノルウエイがつなぐパス」「にねらい」をつけるなら「さっさと相手(=日本)のエリアにボールを蹴ってしまえ」というもので、日本の高校生のもっとも得意とするところである。

だから、それに対抗するためには、ラインがオフサイド・トラップなどに固執せず、ロングに対抗できるバックを置いて、すくなくと50%50%の闘いにもちこむしかないではないかと普通のやつなら思う。

そう言う意味で、この日の日本の守備は相手のロング攻撃にけっして負けてはいない、ただ自分から見たら、相手は「ロングでいわばパワーを前面にだしてかれらのリズムを創る」それを「(オフサイドトラップという、小賢しい方法で)押さえるのでなく、こちらも力でまず対抗する(事実していた)」けれどいったんこちらがボールをとったときに「ではこちらがパワー攻撃をしかける」というのが違うといいたいわけだ。

それではこちらの得意とする「攻撃」ができないではないか、つまり攻撃の問題である。
攻撃でボールをかんたんに相手に渡さない、ということがなかったのが前半の日本の問題であった。

ここでまた分かりにくいことを言う。

攻撃をしかけるときに、その「我が攻撃がいきなりうまくはいかない、のがサッカーである」
だから「守る」のではなく「うまくいかなくてもいいから、攻撃しなければいけない」というのが相川の考えだ。

なぜなら「現場の微調整」ということがあるからだ。

かんたんにいえば、自分たちのやりかたで「なぐりこむ」しかしうまく「相手をやつけられない」ならば「別な方法でやはり、なぐりこむ」べきであって、日本は前半「自分たちのやりかたで、なぐりこみをしない」ところがおかしいというわけだ。

そういうサッカーにしつけない「から」トルシェさん「どうなっているの」というわけである。

ノルウエイはいいもわるいも自分たちの「攻撃」をしかけて、しかけながら、微調整をしていたはずである。

そして日本の守備の方法的弱点やら個人的弱点を感じて、後半あの0‐1のフリーキックの「しかけ」(といってもそんなむずかしいことではないのだが)になった。

0‐2は日本の「攻撃」においてのミスパスをさらわれて、また0‐3も、「さがってきた鈴木だと思ったが」そこを相手がねらって、からやられた。

自分の言いたいことは「なんだそんなミス」ということではなく「ミスも含めて、長いようで短いゲームの時間内に、前半に出れば対応できるのに」「前半の攻撃はいささか理のとおらない攻撃」「後半から、自分たちの攻撃を始める」という、前半、後半のあいだの切断、そういうことでは勝てないさ、というだけのものである。

だからトルシェのゲーム後のコメントを聞いていて『このゲームのパラドックス(英語ならそうなる)は前半はよかったが、攻撃しだした後半に失点した、ということが矛盾』だというようなことをいった、あたりまえじゃねーかトルシェさん。

攻撃すればその隙をつかれて失点する、ことも知っている(のがコーチだ)し、
でも攻撃をしなければ、相手の崩し方を「さぐれない」のもサッカーではないか、それを知っているのもコーチじゃねーかと。

だから答えは平凡で攻撃と守備をいかに両立させるかがサッカーのチーム創出ではないかと、君はそこを「ねぐった」んではないの?というものである。

例えば「みやもと」前半、守備もだめ、攻撃でも「やってはいけないことをやってしまった」そして普通はそうやって前半パニックになっている個人は「正しい判断」ができない、「それゆえ」あの0‐1のとき「ラインをあげてしまう」判断をするのである。人間くさいといえばそれでよい。われわれは宮本を「許す」のみだ。

例えば「なかだ」「おの」.後半ボールキープはできる、しかしかれらからでてくるパスをトップはどうしたいのか?ましてや後半ひいてしまう相手にどう対処するのか、そこが下手なのだが、そんなことはずっと昔から、わかっていたではないか、サッカーではいったんあいてに「ひかれたら」そうはかんたんにはゴールはできない、ということぐらい誰でも知っている「だから」どうしようかということに、頭をなやますのがコーチだろうと、

仮定のはなしだが、(勉強だから)、仮に前半日本が相手のロングをふせぎながら、日本のリズムはとれて(実際にはとれなかった)、攻撃しても、ゴールはできないということがサッカーではあるわけだ。それはトルシェの責任ではない。

0‐0のまま、後半にはいってこのまま「押すのか」相手がこちらの「攻撃に馴れ始めた」から「逆襲を警戒」すると同時に「なにか目先のかわった、攻撃」をしかけるしかほかに0‐0を、1‐0にする手はないのである。その手をうちだすのがトルシェの責任である。

現実には0‐1になり、0‐2になったところでか、ここでトルシェがまた不可解なことをやった、はっとりをいれたのである、自分はそのときにああトルシェはここでゲームの「かなた」にある日本人の大衆からわきでるはずの「解任の圧力」をかわそうとしているな、と感じた。
0‐3になる惨敗→解任をおそれたのではないか?

にもかかわらず、ゲームは0‐3になってしまった。

どこかの高校が、2試合格上の相手に負けた、というのとは話しがちがうのである。
代表が2試合負ければ、当然指揮官解任の「声は出る」
そのくらい、サッカーの世界では0‐3というのは、いやな失点のかたちである。

このゲームの前、代表メンバーの発表の場にトルシェが出ないということが公表された。

これを素直に読めば、レアルのゲームのあとですでにトルシェは「ナーバス」になってしまっている。

チュニジアは大会で日本の相手になる、そこのスアイヤ‐という監督は1月前に就任したわけだ。
マスコミはそのチュニジアが「ごたごたしているけれど、だいじょうぶなのか?」というようなことをいう。だいじょうぶではないわね、準備は長いほうが良い、けれどサッカーの世界では大会中の監督解任でさえある。

トルシェを解任しろというのではない。

ただトルシェ「壊れる」のかもしれない、とそう思ったわけである。